海辺を離れてからも、
善財は何度も振り返っていた。
波の音が、
まだ遠くから聞こえてくる。
海雲比丘は、
最後までこちらを見なかった。
ただ海を見つめながら、
小さく手を振っていた。
(変な人だったな……)
善財は苦笑する。
だが、
胸の奥には不思議な感覚が残っていた。
世界は広い。
深い。
複雑だ。
だが、
すべてはどこかで繋がっている。
海雲の言葉が、
まだ耳の奥に残っていた。
善財は空を見上げる。
高い。
どこまでも高い。
白い雲が、
ゆっくりと流れていく。
(空も……
海みたいなものなのかもしれないな)
そんなことを考えながら、
善財は山道を歩いていた。
海雲から教えられた、
次の善知識。
善住比丘。
“空を観る男”。
正直、
嫌な予感しかしなかった。
徳雲は、
世界中を同時に見ていた。
海雲は、
海そのものと繋がっていた。
ならば――
空を観る男とは、
いったい何者なのか。
善財はため息をつく。
「まともな人、
いないのか……」
山道の脇に、
赤い木の実がなっていた。
善財は足を止める。
丸く、
つやつやしていて、
妙にうまそうだった。
旅を始めてから、
野草や木の実には少し詳しくなった。
善財は何気なく、
実へ手を伸ばしかける。
その瞬間――
『山道で赤い実を見つけても食うな』
海雲の声が、
突然頭の中によみがえった。
善財の手が止まる。
「……」
しばらく実を見つめる。
「なんでそんなピンポイントなんだよ……」
善財は顔をしかめた。
すると。
「おお、
それは毒じゃぞ」
真上から、
声がした。
善財は飛び上がる。
慌てて空を見上げた。
そして――
固まった。
空に、
人がいた。

青空の中。
流れる雲のそば。
ひとりの僧が、
“そこに立っていた”。
風に衣を揺らしながら。
まるで地面の上にいるかのように、
平然と。
その周囲では、
見えない楽器でも鳴っているかのように、
風が不思議な調子で渦を巻いていた。
善財は口をぱくぱくさせる。
声が出ない。
僧は腕を組み、
少し困ったような顔をした。
「いや、
だいたい皆そうなるんじゃが」
善財は数秒遅れて叫んだ。
「なっ――!?」
僧は首をかしげる。
「おぬし、
善財ではないか?」
善財はまだ空を見上げたままだった。
「えっ」
「海雲から話は聞いておる」
僧は静かに頷く。
「ワシが善住比丘じゃ」
善財は、
しばらく何も言えなかった。
ただひとつだけ、
はっきり分かった。
(また変な人だ……)
善住比丘は、
空の上で腕を組んだまま、
じっと善財を見下ろしていた。
風が吹く。
白い衣が、
雲と一緒に揺れている。
だが不思議なことに、
落ちそうな気配がまるでない。
まるでそこに、
見えない床でもあるかのようだった。
善財は恐る恐る口を開く。
「ええと……」
「うむ」
「なんで空にいるんですか?」
善住比丘は少し考えた。
「慣れじゃな」
「慣れ」
「うむ」
善財は頭を抱えた。
徳雲比丘もそうだった。
海雲比丘もそうだった。
この人たち、
説明する気がまるでない。
善住比丘は、
そんな善財を見て楽しそうに笑った。
「まあよい。
まずは来るがよい」
「来る?」
善財は周囲を見回した。
山道しかない。
「どこへ?」
善住比丘は当然のように言った。
「ここじゃ」
空の上だった。
善財は固まる。
数秒後。
「無理ですよね!?」
「そうか?」
「そうですよ!」
善住比丘は少し不思議そうな顔をした。
「海雲のところから来たのじゃろ?」
「来ましたけど!?」
「ならば、
空くらい歩けてもよさそうなものじゃが」
「どういう理屈ですか!?」
善住比丘は顎に手を当てた。
「ううむ……」
本気で考え始めている。
善財は嫌な予感がした。
次の瞬間。
善住比丘が、
すっと右手を上げた。
風が変わる。
空気が震える。
山の木々がざわめいた。
そして。
善財の身体が、
ふわりと浮いた。
「えっ」
足が地面から離れる。
「えっ!?」
荷物が揺れる。
視界が傾く。
善財は慌てて空中でもがいた。
「うわああああ!?」

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