オオカミになった羊(後編21)by クレーン謙

その夜は四年に一度の狼月ーーーアセナが夜空を見上げますと、地上に住まう生きとし生けるものを見守るかのようにして、大きな月が静かに輝いています。
狼月の夜は、オオカミ族にとって神聖な夜。月の精が地上に降り注ぎ、オオカミに恵みや勝利をもたらす、そのような言い伝えが昔からオオカミ族にあるのです。
そんな夜を選んで、フェンリルはアセナに決闘状を突きつけてきました。

フェンリルが指定してきた時刻が迫っている中、アセナは弓矢の手入れをしながら小さい頃のことを回想しています。ーーそう、フェンリルはアセナの師匠なのです。
アセナはフェンリルから、とても高度な狩りの技術、狩狼としての立ち居振る舞い、狩猟族としての考え方などを教わっていました。
アセナの父ミハリも卓越した戦士なのですが、フェンリルは父でさえ教えてくれなかったことをアセナに教えていました________

剣の振り方を習得したばかりの頃、アセナはフェンリルに連れられて《月の水》と呼ばれる川にシャケ漁に出ました。
ーーオオカミ族はウサギや鹿だけではなく、川で魚も獲ります。
二匹が弓矢を手にしながら川沿いを歩いていると、激しい流れに逆らいながら、上流へ向かい飛び跳ねるシャケの群れを目にします。
渓谷に響くザーザー、という音の中でフェンリルが語った言葉が、今でもアセナの深い所に刻まれていますーーアセナにとっては、フェンリルの教えと大自然の理は等しいのです。

「……アセナよ、川を昇るシャケを見るがいい。あいつらは、上流で子孫を残すために海からはるばるやってきた。あいつらの何匹が、その義務を果たせると思うかね ? 途中であいつらは、熊にも襲われる。俺たちのような猟師にも狩られる………そう、あいつらの百匹の内の五匹か六匹ぐらいしか、上流に無事にたどり着かぬだろうな。また無事にたどり着いても、すでに体はボロボロになっていて、あとは死を待つのみ。子孫を残せるのは、ごく僅か。ーーこれが本来の大自然の姿なのだ。我らオオカミ族、そして羊族を見よ。科学や武器を発達させ、自然を征服した気になっておる。おかげで、我らは誰しも、互いに結ばれ子を残せるのが、さも当たり前だとすら思い込んでいるが、違う。ーーーここで見た光景を覚えておけ、これこそが本当の世の姿なのだ」

アセナは指導者ミハリの息子として、何不自由なく生きていたので、このような教えがなかったら、世の厳しさを何一つ知らないオオカミに育っていたでしょう。
アセナの不屈の精神は、フェンリルから受けついだと言っても過言ではないのです。
ーー今でもフェンリルを尊敬はしていたのですが、もし彼の教えに敬意を払うのであれば、やはりアセナは戦い、そして師匠を倒さねばなりません。
オオカミ族の掟によれば『決闘』とは、どちらかの死を意味しますーーそれはフェンリルも百も承知な筈で、自分を殺すつもりであるのを、アセナには分かっていました。

よく研がれた矢じりの付いた矢を15本、矢筒に入れ、弓を担ぎアセナが寺院から出ようとしていると、アリエスが聖堂の方から何かを携えながらやってきましたーーよく見れば、それは長い剣。きっと、聖堂の小部屋に祀られたオオカミに刺さっていた剣なのでしょう。

「アセナ、《オオカミ殺しの剣》を持っていきなさい。この剣を用い最強のオオカミを討てたのだから、もしやこれで、そのオオカミを倒せるかもしれないわ……」

アセナは手渡された《オオカミ殺しの剣》を手にしてみたのですが、それはオオカミ族が普段使っている月神剣に比べると、あまりにも重く大きな剣。
オオカミは機敏に動き回り、敵を倒すので、このような大きな剣は戦いには向いていないように見えますーーしかし、どちらにしても、アセナは自分より遥かに狡猾で戦い慣れたフェンリルに勝てる気がしません。

しばらく考え込んだあと、アセナはその剣を持っていくことに決め、アリエスに軽く会釈してフェンリルが指定した森へと向かいます。
アリエスは祈るように、若きオオカミが森へ向かうのを見送っていましたが、もはやその若者は獰猛な野獣の気配が漂っていますーーそう、アセナは師匠の教えどおり、『同情』と『哀れみ』を魂から拭い去るように努めており、身も心も『戦狼』となり森の中を野獣の目つきで進んでいました。

指定場所に近づくと、アセナは自らの気配を消し去るのに全神経を集中しますーーフェンリルが虫の足音でさえ聞き分けるのを、知っているからです。
幼い頃フェンリルに教わったように、アセナは自らを森に溶け込ませるようにして、敵の気配を探りあてようと、耳を、目を、鼻を、研ぎ澄ませ……ゆっくりと、森の中を魂の抜けた亡霊のようにして進みました。

夜空には大きな月が照っており、モリフクロウがホウホウ、と鳴いています。
しばらく歩くと、アセナの鼻がソールの匂いを嗅ぎつけましたーー匂いのする方向を見ると、木に縛られたソールの姿が月光に照らされているのが見えました。
アセナは飛び出してソールに近づきたい衝動を、抑えねばなりませんでした。
そんなことをすれば、フェンリルの矢で串刺しになってしまうのは目に見えているのですから。

(どこかにフェンリルは潜んでいるに違いない……)アセナは気配を殺しつつ、辺りの様子を窺います。
すると、微かではありますが、どこかからフェンリルの気配が。
……ソールの後ろにある茂みから、その気配が感じられたので、音を立てぬようアセナは矢を矢筒から抜き、弓につがえ、弦をゆっくりと引っ張りーー茂みに照準を合わせ、……その気配にめがけ矢を放ちました。
シュッと空気を切りながら、矢が茂みに向かって飛翔。矢が茂みに吸い込まれるようにして、喰い込みましたが、しかし、どうやらそこには誰もいないようです。
全く予想もしていない方角から、矢が飛んでくる気配を感じ取り、アセナは身を屈めたのですが、よけ損ね、右耳の耳たぶを矢が突き抜けました。グサッ、という鈍い音がアセナの耳中で響きます。

ーー思わず「ウッ」と声をあげてしまい、その声でソールがアセナに気付きました。
「アセナ !! 」
アセナの右耳に大きな穴が空きましたが、耳たぶにはあまり血管が通っていないのを知っているので、アセナはすぐに冷静さを取り戻します。

すぐに第二派の矢がアセナを目掛け飛んできましたが、今度はかわす事ができーー
アセナのすぐ後ろの木に、ズカッ、と音を立て刺さります。
木に刺さった矢の羽根を見ると、それはカラスの黒い羽根ーーフェンリルが好んで使う矢でした。
アセナは忘れていました。フェンリルほどの戦狼ともなれば、自らの気配を敵に欺けることを……。

「フフ……、あの茂みに俺がいるとでも思ったのかね ? 俺にはお前がどこに居るか、よく見えているぞ……アセナよ、俺がどこに潜んでいるか分かるかね」
月の明かりが降り注ぎ、どこからともなくフェンリルの声が。アセナは痛む耳を必死になって動かし、いずこから声がするのかを探ります。

どこかからガサリと音が聞こえたような気がしたので、音がする方向に向かって弓矢を向
けーーアセナは矢を放ちます。しかし、アセナの放った矢は闇夜に吸い込まれていきました。
そして、またもやあらぬ方向からシュッ、と矢が飛んできて、アセナの左足のすねに、深く突き刺さりました。
激痛が足に走り、矢が刺さった所から血が噴き出しましたが、アセナは矢をつがえ、続けて矢が飛んできた方向に向かって矢を放ちますーーしかしすでにフェンリルはそこには居ませんでしたーー今度は矢を放った方角の真逆から、フェンリルの矢が飛んできてアセナの頬をかすめました。

「……アセナ、負傷した耳では、もはや俺の気配が聞けぬようだな、残念ながら。足もそれでは、逃げ回ることも出来ぬであろう……。お前はそんな程度だったのか ? 敵を欺く方法、気配を読む術、あんなに教え込んだのに、お前はそこまでのオオカミだったのかね ? どうやらお前は『同情』と『哀れみ』を捨て去っておらぬな。どうしてだね ? 俺がお前の師匠だからか ?
フン、ならば言ってやろう。俺はな、お前を始末した後、この雌羊を殺して食うつもりだ……。実に旨そうな羊じゃないか……」

フェンリルがそう言うの聞き、アセナの中で何かがプチリと音を立てて切れる音がしました。
心の中から『同情』と『哀れみ』が完全に消え去り、アセナは真っ赤に燃え上がる程の怒りに包まれました。
ーー殺してやる! 必ず、必ず、お前を殺してやる! そしてソールを助けるんだ……もはや、貴様は師匠でもなんでもない、狂ったオオカミだ ! 敵だ。僕らの敵なんだ ! 月の神よ、戦いの神よ、僕らに力を !

アセナはフェンリルに聞かれるのも構わず、月に向かって大きな口を開き、ウオーーッと吠え、背から《オオカミ殺しの剣》を抜きました。

――――つづく

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