前回、アシモフの小説に出てくるロボットには感情があるということを書いた。だが、やっぱりこの書き方は気に入らない。
私はこれまで、「情動」という言葉を使うのを避けて、代わりに「感情」という言葉を使ってきたが、やはりここは、情動というべきだと思った。
専門用語として使われている言葉だから、というだけではない。字面からしても、「情動」の方が、私の言いたいことにぴったりくる。
「感情」というのは、情を感じると書く。自分の中に起こったある動きを、意識が感じとったものだ。意識された物だから、「嬉しい」「悲しい」「なつかしい」など、言葉であらわすこともできる。
「情動」というのは、情が動く、または情が動かすと書く。意識が感じる前の、名づけられない情の動きであり、我々を動かすものでもある。
アシモフのロボット三原則は、ロボットを動かす物だ。
水鏡子氏は、「ロボットの時代」の解説の中で、三原則のことを、「比較的何にでも敷衍できる、職業倫理の大綱みたいなもので」「たいていの職業のタテマエにあてはまるのがよくわかる」と書いておられる。全く同感なのだが、ただしロボットにとっては、「タテマエ」などではない。
「第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。」
この原則によって、ロボットは「人間を傷つけちゃいけないんだなあ」などと思うのではない。人間を傷つけることが「できない」のである。ちょうど、人間が、燃え盛る火事の炎の前に立つと、足がすくんで前に進めなくなるように。
「第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。」
ロボットは、「人間の言うことを聞かなきゃなあ」などと思うのではない。喉の渇いた人間が、思わず水を飲んでしまうように、人間の命令に従ってしまうのだ。
三原則は、ロボットのプログラムの最深部にあって、書き換えることができないものということになっている。アシモフ自身が意識していたかどうかはわからないが、これは、動物でいえばまさに本能に相当するではないか。「本能」というのは、最近はやらない言葉だが、情動を起こす基となる、生得的な行動原則を表すのに、これ以外の言葉を私は思いつかない。
生存本能が、天敵に出会った動物に恐怖の情動を起こす。恐怖を感じることで、動物は天敵から逃れることができる。同じように、人間を傷つけそうになって恐怖に襲われるロボットの姿を、アシモフは小説の中で描いている。
水鏡子氏は、ロボット三原則を「職業倫理の大綱のようなもの」といっているが、ロボットの倫理は、「本能」に書き込まれ、情動によって支えられている訳だ。
人間の倫理というものも、情動によって裏打ちされているべきではないだろうか。情動を伴うか否かが、倫理(あるいは道徳)とルールの違いではないだろうか。
という訳で、次回からはロボットを離れて、人間の話になります。
(by みやち)