なにわぶし論語論第55回「顔淵死す!」

顔淵(がんえん)死す。顔路 子の車以って之(これ)が椁(かく)を為(つく)らんと請う。子曰く、才も不才も、亦(また)各々其の子を言う。鯉(り)や死せしとき、棺有るも椁無かりき。吾徒行もてし以って之が椁を為るをせざりしは、吾 大夫の後(しりえ)に従い徒行す可からざるを以ってなり、と。(先進 八)

――――顔淵が死んだ。顔路(顔淵の父)が、(棺を収めるうわひつぎを買う金がないので)うわひつぎの金を作るために、先生の車を頂けませんでしょうかとお願いした。孔子は答えた。「才能がある子でもない子でも、親というのは皆、その子のためにできるだけのことをしたいと言うものだ。(それは良くわかる。)自分の子供の鯉が死んだとき、やはり棺は用意できたがうわひつぎは用意できなかった。そのとき私が車を売ってうわひつぎの金にしなかったのは、私はすでに大夫(大臣格)となっていたので、徒歩で出歩くことが許されなかったからなのだ。(今もそれは同じなのだ。)」――――

孔子の一番のお気に入りの弟子、顔淵(顔回の字名)が死んだ。孔子71歳の時のことである。その2年前には孔子の子、孔鯉が50歳で世を去っている。実子に続いて思想・学問上の後継者まで失った孔子の悲嘆はいかばかりか。孔子自身は74歳と長寿だったが、これでは幸せな晩年ではなかったようだ。
論語には、孔子が顔淵の才能、人格を褒め称える言葉がいくつも載っているが、この「先進」篇では、4章(節)連続で、孔子が顔淵の死を激しく嘆く様子を描写している。ちなみに孔鯉の方は、好人物ではあったようだが、優秀だったと言う逸話は論語にもない。「不才」というのは、おそらく孔鯉のことだろう。
孔子のもとに、顔淵の父、顔路がやって来た。貧しい顔路は、顔淵のための棺はなんとか作ったが、棺を入れるうわひつぎを作る金がなかった。そこで、金に替えるために、孔子の車を譲ってくれないかと頼み込む。
車を望んだと言うことは、孔子は現金や、それに代わる物を持っていなかったと言うことだろう。当時、貨幣がどのくらい流通していたのかわからないが、貨幣でないにしても、金、銀などがもらえれば、車をもらうより良いはずだ。そうしなかったということは、孔子はそういった財産を持っていなかったということだ。
孔子は困った。彼は一時は魯国の宰相代行まで務めた大夫である。引退したとはいえ、格式を守らなければならない。車を売り飛ばして徒歩で出かけたりしてはいけないのである。
結局孔子にできたのは、顔路の話を聞くことだけだった。話し上手で有名な孔子だが、今回は図らずも、聞く力を発揮することとなったわけだ。

(by みやち)

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