【 愛欲魔談 】(7)痴人の愛/谷崎潤一郎

【 瓦 解 】

今回は谷崎潤一郎「痴人の愛」で、河合譲治(主人公)がどのような経過でナオミに失望し始めたか、という話をしたい。読者にとっては待ちに待った「ザマーミロ」幕に突入である。

洋館で至福の「ママゴト巣作り」期間を経て2年後、河合とナオミは「切っても切れない関係」(河合の表現)となる。この段階で河合は「ゆくゆくは結婚」というかねてからの計画を持ち出し、というよりはナオミに告白し、ナオミは了解する。ほどなく入籍。河合の幸福感がピークに達するのはこのあたりだろう。

当初の「自分の眼鏡にかなういい女に成長したら結婚」という河合の自分勝手な人生計画からすれば、「同棲2年後の入籍」という展開はどうなのか。ナオミ17歳。高校生と結婚したことになる。高校生では「いい女に成長したかどうか」という判断はどう考えても早い。いささか急ぎ足となってしまった感がある。
男性の欲望にはそのような側面があるのかもしれない。ナオミの若さや、美貌や、かわいらしさに目が眩んでいるうちに「さっさと自分のものにしてしまいたい」という欲望が最優先してしまうのかもしれない。この「早すぎた判断」が、河合を悲劇へと導いていくのだ。

かくして河合とナオミは晴れて夫婦となった。しかし河合の失望はその直後、意外なことに「ナオミの英語能力」から始まる。かれこれ2年間も(外国人女性から)個人教授を受けていながら「いまだにこの程度の和文英訳しかできないのか」といった保護者的不満・「上から目線」的不満がついつい出てきてしまったのだ。2年間の蜜月期間を経てついに入籍というゴールにたどり着いた直後にこの有り様だ。

河合はその件で外人女性教師に会いに行く(まさに保護者!)のだが、教師はナオミを褒めるばかりで全く判然としない。ならばと自分も一生懸命になって、毎夜のようにナオミに和文英訳を教え始める。英語ができる河合にとって、ナオミの理解度はイライラするほど遅い。「そんなんじゃダメだ」からついに「馬鹿!」と怒鳴ってしまう。

ここでナオミの負けん気がいかんなく発揮される。なんとノートをビリビリと引き裂き、ポンと放り出し、無言で河合を睨み返すという態度に出る。ショックを受けつつ河合も怒りがおさまらない。双方共にキレまくった修羅場となってしまう。
「今すぐにこの家を出ていくか、あやまるか」という河合の剣幕にナオミは不承不承で謝るのだが、まったく可愛げがない。河合は早くも「自分が期待したような女ではなかった」と打ちのめされる。所詮、下賤出身の女はどう教育したところで……といった失意の虜になってしまうのだ。

このあたり、「15歳の美少女を我がものに」と画策した「起・承」段階の、あたかも階段を一段ずつ登って行くような確実な進行に比べ、一気に破局に向かって転げ落ちた展開だ。
「瓦解」という言葉を連想させる。屋根瓦の一部が崩れたことから、その建物全体が崩壊に至る凄まじいシーンを喚起させる言葉だ。「ナオミの和文英訳能力が低い」という疑い。たったそれだけのことから、ふたりの関係が破局にいたるまでの瓦解スピード感。さすがは谷崎。

【 失 意 の 理 由 】

「アホは河合の方やな」と高校生の私は「図書室」に言った。「……個人教授につけてんだからさ、英語の上達だけに命かけてるわけじゃないんだからさ、外人女に全部任せておけばいいじゃん。余計な出しゃばりをして、結局、自分で勝手に失望してんじゃん。アホやな」

図書室はヒッと短く笑ってから、右手を出してきた。その本をちょっとよこせというのだ。「痴人の愛」を渡すと、彼はパラパラッ、パラパラッとあちこちめくっては、その度に10秒間ほど速読していた。その仕草に私は密かに舌を巻いたものだ。

「河合は電気会社の技師だからね」と彼は言った。そのとおりなのだが、私には彼がなにを言いたいのかさっぱりわからなかった。
「……だから個人教授で2年間も投資した金額にしては、ナオミの成長がまるでアホやったんで、イラッと来たんやろね」
さすがは図書室。私は再び舌を巻いた。

つづく


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