【 乾パン 】
ヤギジイの家の中は一間で(ちょっと驚いたことに)板の間だった。畳はなかった。食卓ほどのテーブルがひとつ。木の椅子が4脚、無造作にそのテーブルを囲んでいた。みなバラバラの椅子で素朴な手作りだった。ヤギジイが作ったのかもしれない。あるいは御近所の誰かが作ったのかも。
「まあそこにおすわり」とヤギジイが言った。ちゃんとした日本語だったが、独特の抑揚だった。3少女は適当に椅子を選んでさっさと座った。ひとつだけ空いている椅子に私も座った。
「甘いものはなんもあらへんで、すまんな」
ヤギジイは笑いながら、脇の棚から鈍い銀色に光った円筒形の缶を出してきた。スポッと蓋を開けて、四角いビスケットのようなものを出した。よく見るとそれはビスケットではなく乾パンだった。近所の駄菓子屋で売っているのは知っていたが、私は買ったことがなかった。
彼はそれを2個出すと、それぞれパキンと半分に折った。テーブル上に細かいパン粉がパッと飛び散ったが、私以外の4人はそんなことは気にも止めていなかった。4個になった乾パンは3少女と私の前に置かれた。皿もなければ飲み物もなかった。私は半ば唖然とした気分でテーブル上の乾パンを眺めた。

8歳の私はこの乾パンによほど興味を持ったのだろう。パン粉が飛び散ったことやら、乾パンの味やらを細かく記録している。味も私が全く予想もしていなかった味で、薄い塩味だった。近所の駄菓子屋で売っている乾パンとは違うものだったのかもしれない。
「この子たちはみんな日本で生まれた」とヤギジイが言った。
「そうよ。せやからあたしは日本人」と年長のソアが言った。ヤギジイはソアの背後に立っていたのだが、その表情が一瞬こわばったように私には見えた。彼はやや早口でソアになにかを言ったのだが、異国語だった。私がソアを見ていると、ソアは笑いながら言った。
「どこで生まれても、朝鮮人は朝鮮人や、言うてんねん」
「ここに住んでる人たちは、みんな朝鮮人なん?」
「せや」
「ふーん」
「せやけど朝鮮なんて行ったこともないねん」
「行きたい?」
ソア以外の年下の少女たちがパッと手を上げた。2人とも「行きたい!」と言った。
「ジアとミイアはいつも行きたい行きたい言うてんねん」
少し後に知ったのだが、この3人は姉妹だった。上から順にソア・ジア・ミイア。ソアが一番活発で、一番利発そうに私には見えた。やはり2人の妹たちの面倒をいつも見ていたからかもしれない。
「ソアは?」
「行きとうない」
「なんで?」
「写真で見たことあるねんけどな、ただの田舎や。京都の方がええねん」
「ふーん」
【 依頼 】
ヤギジイは独特の抑揚で日本語を話すのだが、どちらかと言えばやはり朝鮮語で話をしたいようだった。いま思えば彼の胸中には複雑な葛藤があり、近所に住むこの3姉妹とも朝鮮語で会話したいのだろう。しかし3姉妹の方は朝鮮語に興味はなさそうだった。日本で生まれたのだから当然そうなのだろう。上から順にソア8歳・ジア6歳・ミイア4歳。ソアは私と同い年だった。
ヤギジイが私を呼んだのは3姉妹に引き合わせるためではなく、乾パンを食わせるためでもなかった。彼は私に伝えたいことがあったのだ。しかし(その理由は不明だが)自分でそれを説明しようとはせず、朝鮮語でソアに話をし、ソアが私にその要件を伝えた。
「虫、捕まえるのが好きなんやろ?」
私は頷いた。
「どんな虫、捕まえるのん」
「チョウチョ、トンボ、バッタ……かな?」
ヤギジイは立ったままで我々の会話を聞いていた。
「イナゴて、いるやんか」
「うん」
「イナゴを捕まえたらな、うちらにほしいねん」
「イナゴを? なんで?」
「うちらはな、イナゴを食べる料理があるねん」
当時の私にとっては衝撃的な話だった。
【 つづく 】

