【 2枚目の依頼 】
貞子デッサンは、(自分で評価などできないが)まあまあ、うまくいった。
いつも「20分人物デッサン」をするたびに思うのだが、この20分間は自分の内部でじつに様々な思考や感情が縦横に飛び交う。同じ20分でも、時間を気にしてちょっと焦ったフィニッシュになることもある。「余裕の20分だな」と思いながら悠々と完成させることもある。それはモデルにもよるし、その時の自分のコンディションとか集中力とか、様々な要因が複雑に絡むことにより、20分を短いと感じたり余裕に感じたりするのだろう。時間というのは本当に不思議だ。
貞子はデッサンを見てすごく喜んだ。
「これは私の部屋に飾るわ」
これにはちょっと驚いた。
あわてたのはピエールだ。貞子から(フランス語で)そう聞いた彼は、彼女としばらくごちゃごちゃと会話していたが、貞子が急に笑い出した。
「もう一枚、描けないか聞いてくれって言ってるわ」
これには笑った。
じつを言うと(ヌードデッサンのように)「やってもいい」と一瞬、思った。そのモチベーションというかパワーはまだ残っているように思われた。しかし私はこの男が嫌いだった。正直に言ってしまうと「こんなヤツのためにもう1枚を描く? ごめんだね」といった気分だった。
「申し訳ないですが……」と私は貞子に言った。「今日はもうその気になれないですね。別の機会に……」
この、うっかり言ってしまった「別の機会に」という言葉がまずかったのかもしれない。貞子がどのように通訳してそれをピエールに伝えたのか知らないが、彼がうんうんとうなずいた笑顔が妙に気になった。直感で「この男は諦めてない。2枚目を拒絶したとは思ってない」と悟った。
【 マリアンヌ 】
ピエールが連れてきた若い女性が私に腕を伸ばしてきた。我々は握手した。黒髪のほっそりとした女性で、大きな目の透き通った深い灰色が印象的だった。マリアンヌという名前だった。マリアンヌは机上に置いた自分のスケッチブックに軽く手を置いて、貞子とちょっと会話した。うんうんとうなずいた貞子が私に向き直った。
「デッサンを批評してほしいと言ってるわ」
「通訳つきで?」
「そう」
応じることにした。マリアンヌに笑顔でうなづき、彼女のスケッチブックを受け取った。見たことがない表紙のスケッチブック(F4)だった。
私はスケッチブックが好きで、画材店に行くと時間をかけてあれこれとスケッチブックを物色する。色々なサイズのものがあるのも面白いが、もっとも興味を持って調べるのはF3とF4で、どこのメーカーか、どんな紙か、価格はどうか、などなど興味は尽きない。そのような趣味があるので、(日本の画材店で売っている)大抵のスケッチブックは表紙に見覚えがある。なのでマリアンヌが私の前に押し出してきたスケッチブックを見て興味は募った。フランスは世界一スケッチブックの種類が豊富だと聞いたことがある。
開いてみてちょっと驚いた。そこに描かれていたのは全て人物だったが、鉛筆ではなかった。そのスケッチブックは「パステルデッサン用」なのかもしれない。紙は白ではなくグレーで、しっかりした厚みをもっていた。彼女が使っていたのは、パステルとクレヨンだった。ところどころにある白いタッチは白の色鉛筆だろう。グレーの紙に描いているので、白がすごく生きている。
「ちょっと驚いた」のはその荒々しいタッチだった。それは思わず御本人にチラッと視線を走らせてしまうほどのインパクトがあった。

「どう?」
貞子の声にハッと現実に戻るほど、私は熱心にページをめくって作品を見入っていた。
「ロートレックのデッサンを彷彿とさせます」
貞子がこの感想をマリアンヌに伝えるまでもなく、マリアンヌは私の言葉から「ロートレック」を聞き取って感動したようだった。彼女は胸の前で両手を組んで嬉しがった。その様子を見て「ああやはり」と思った。ロートレックのデッサンを深く愛しているのだろう。心酔しているのかもしれない。少し興奮したような声音で貞子と会話していたが、貞子が「それから?」と聞いてきた。
「この部分のタッチは、たぶん色鉛筆の白だと思いますが……」
私は作品の一部を指で示した。
「色鉛筆よりもダーマトの白とか、もっと油性の強い白で描いたらいいと思います」
「ダーマト?」
貞子もマリアンヌもけげんな表情となった。ふたりともダーマトグラフを知らないようだった。
【 つづく 】

