【 魔談518 】モンマルトルの画家たち(19)

【 重厚な聖書 】

私が滞在したホテルの部屋にはテレビがなかった。少々残念に思ったが、まあその程度だ。「そっか、テレビなしか。まあ、いいや」てな感じ。
浴槽もない。「そっか、シャワーだけか。まあ、いいや」。それと同じようなものだ。
ないと言えば、部屋には蛍光灯もない。あるのは3つの白熱電球スタンドだけ。ガラス球部分はなぜか3つとも透明だった。まあムーディーで、これもまた悪くない。
あちこちホテルを泊まり歩くのではなくずっとこのホテルにいる、という滞在の仕方は気に入った。気分的にすごく楽だった。

アンティークな雰囲気のライティングデスクを見てふと思いつき、引き出しを全部調べた。
大きな引き出しには聖書が入っていた。日本のホテルでも聖書は見たことがあるが、この聖書は装丁がじつに立派だった。なにしろ革の表紙だ。
「なるほどねぇ」となんとなく感心。聖書に対する敬意というか認識というか、日本のホテル経営者とは全く別格なのだろう。
引き出しから聖書を取り出して、デスクの上に置いた。フランス語なので読むことはできなかったが、じつに重厚な装丁をじっくりと点検して楽しんだ。革の表紙に比べて本体の紙のまた薄いこと。いわゆる「裏写り」といって「裏の文字が透けて見える」その一歩手前ぐらいの薄さだ。「ほとんどトレーシングペーパーだな」と思ったが、トレーシングペーパーよりも腰があり、微妙に黄味の入った紙だった。もともとそのような色の紙なのか、あるいは長い歳月のあいだに微妙に黄ばんでしまったのか、それは判断がつかなかった。
( ※ 紙の腰というのは、紙質のしなやかさとか弾力性を示す印刷用語である )

小さな引き出しの一番上にはワインの栓抜きがゴロンと入っていた。それだけだった。まるで「ホテルが用意した」というよりも、以前の客が忘れていったような感じだ。栓抜きを見て「そうだ、ザックにワインを入れたままだ」と思い出した。パリ北駅近くで買った赤ワインだ。同時に「そうか、ワインはコルク栓だ」と気がついた。この栓抜きを見つけていなかったら、赤ワイン持参で1階に降りて(身振り手振りで赤ワインの栓を抜きたいとマスターに知らせ)、栓抜きを借りてこなければならないところだった。
「栓抜きのことぐらい、赤ワインを買った時点で気がつけよ」と自分の迂闊さに呆れてしまったが、あの時は緊張MAXで店に入ったことでもあり、まあ仕方がないか。

【 地図とワイン 】

その日の夕方から夜。つまりパリに来て2夜目。私はホテルの部屋を出なかった。なんとなく、もう外に出る気がしなかった。
床にパリの地図を大きく広げた。パリの地図はガイドブックだけでもよかったのだが、パリ全体が見渡せる(折りたたみ式の)大きな地図を出発直前に買っておいた。地図は大きい方が気分がいい。

中華惣菜のつまみもワイングラスも床に置いた。ベッドを背もたれにして床に座り、赤ワインをちびちびとやりながら地図を見下ろした。
20フラン(¥400)の赤ワインは少々酸味が強いものの、なかなかうまかった。モスグリーンのワインボトルを改めてしげしげと眺めると、ラベルは印刷されたものではなく、ワープロで無造作に打った(名刺サイズほどの)紙が1枚、ぺたっと貼ってあるだけだった。文字はところどころ滲んでいた。まあラベルなんてどうでもいいし、とにかく安いんだし、うまいし、こりゃいいや。ここにいる間はビールなんかやめだ。色んなワインを飲むぞ。……なんて喜んでびちびとやっている間に、ワインはどんどん空に近づいた。

「さて明日はどのあたりに行くか」といった計画を立てようとしていたのだが、ワインの酔いでどうでもよくなった。
もちろんルーブルとオルセーは行く。これはもう行くっきゃない。しかし同じ日に行こうとは思わない。ルーブルとオルセーはそれぞれ1日を当てるつもりだった。それ以外は?
「まあ、いいか。明日はルーブルに行こう」
それだけを決めた。

(余談)
旅行に行くとあちこち精力的に動き回り、名所旧跡の類をひとつでも見逃すまいと行動スケジュールを分単位で計画する人がいる。「すごいなぁ」とは思うが、私は真逆だ。名所旧跡など、どこ吹く風。気の向くまま、足の向くまま。「観光」というよりは「徘徊」に近い。
長い時間をかけて、散々苦労をなめてパリまで来ておきながら、そうした自分の習性というか行動に全く変化がないことがおかしかった。
「まあ滅多に来れないところなんだし」とは思った。
「まあルーブルは、中学生時代から行きたかった美術館なんだし」とも思った。
しかしその程度。どこに行くにしても「ものすごい期待を胸に抱いて」てなことは、結局、なかった。

【 つづく 】


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