【 酒場の歌手 】
ふと気になって腕時計を見た。午後11時を回っていた。店に来たのは午後5時頃だったので、なんと我々は6時間ほど飲んでいることになる。居酒屋が好きな飲み助にとっては「よくある話」だろうが、さすがにワインの酔いがかなり回っていることを自覚した。これ以上深酒になる前にホテルに戻りたいと思った。
酒場の様子は(ちょっと驚いたことに)午後9時〜10時あたりから客はどんどん増え始めた。パリの飲み助は深夜族が多いのだろうか。円卓もカウンター席も満席だが、次々に客が入ってくる。店もそれを制限するようなことはしない。
「この店は何時までやってるのですか?」
「さあ」
貞子は笑っている。そんなことは考えたこともない、といった悠々たる態度だ。円卓の周囲でも、壁に展示された絵の前でも、ワイングラスを手にした人々が談笑している。「ルノアール風少女作品」の前では4人ほどが集合して、絵のあちこちを指さしながらなにやら議論している。たぶん4人とも画家なのだろう。そのうちの1人が作者なのかもしれない。
さらに面白いことが起こった。じつに恰幅のいいおじさまがいきなり歌を熱唱し始めたのだ。じつはオペラ歌手なのかもしれない。オペラ劇場には行ったことがないのでよくはわからないが、すばらしいテノールだということぐらいはわかった。彼の周囲から拍手がわき起こった。「ヒュッ」と口笛も聞こえた。
彼は3分ほどの短い1曲を歌い終えると、片足をスッと背後に引きながら腕をクネクネと動かす奇妙なお辞儀をした。たぶん中世貴族のお辞儀なのだろう。再び拍手喝采が沸き起こり、彼は酒場の真ん中に出てきた。この店の立ち飲み客たちは、こうした状況に慣れているのかもしれない。店内はほどよく混み合っていたが、進み出た彼を囲むようにしてたちまち円形の空間が出現した。

ロートレックが描いた酒場の男
なんと最初に歌い出した曲は前奏曲のようなものだったのだ。彼はそれから15分ほどかけて2曲を歌いあげた。じつに見事だった。歌い終わった時はまさに「満場の拍手」だった。リュックサックの財布にある20フラン硬貨(¥400硬貨)数枚を全部投げてもいいほどの熱唱を聞かせていただいた気分だったが、彼は投げ銭を求めるようなことはしなかった。悠々と元の席に戻り、店はあっという間に元の状況に戻った。
「そろそろホテルに戻りたいと思いますが……」
貞子に希望を伝えると、明日の予定を聞いてきた。特に予定はなかった。
「じゃあ、明日はぜひ私たちのアトリエに来てちょうだい」
私は了解した。
【 夜道の歌手 】
結局、店を引き上げたのは午前0時頃だった。店は明け方あたりまでやっているのかもしれない。我々が引き上げた時点でも相変わらずの満席だった。我々、というのは貞子、マリアンヌ、私の3人だった。
「ピエールは?」
「いいのよ。あいつはほっておいて」
これには笑ったが、それにしてもどこにいるのか。店内に視線を走らせてみたのだが、とにかく混み合っていてよくわからなかった。ローズの姿もなかった。
我々3人はブラブラと坂道を登っていった。12月に入ったばかりのモンマルトルの夜は寒かったが、肌を刺すような厳しい寒さではなかった。ワインで酔っているせいかもしれない。高揚した気分のせいかもしれない。
3人はしばらく無言で歩いた。どこからか、かすかに音楽が流れてきた。「弦楽三重奏」という言葉がふと頭に浮かんだ。楽しげな曲ではなかった。アイルランド民謡かもしれない。どことなく寂しげな余韻を含んだ曲だった。
驚いたことに(本当にその日は驚きの連続だった)すぐ傍から歌声が聞こえてきた。マリアンヌが歌っていた。彼女の声はいくぶんハスキーで高いオクターブだったが、音程に揺らぎはなかった。私は一種の恍惚を味わうような気分でゆっくりと歩いた。こんな深夜に、2人の女性と、ほろ酔いでパリを歩いている。我ながら信じがたい光景だった。
マリアンヌが歌い終わると貞子と私は拍手した。貞子はマリアンヌと並んで歩きながらなにか会話していたが、ふと背後を振り返って私に言った。
「ねえ、今夜はアトリエに泊まっていかない?」
またしても驚きの展開だった。即答できなかった。正直なところ、早くホテルに戻ってさっさと寝てしまいたいと思っていた。
「なにか理由が?」
貞子は笑った。
「ちょっと疲れちゃったみたい。すごく眠いの」
確かにそれは同感だった。約束ではあったが、疲れたと言ってる相手にホテルまで送れとは言えなかった。寝られるのであればどこだっていい。そんな気分になっていた。
「では一晩お邪魔します」と私は言った。「ただホテルに電話をしておかないと」
「アトリエに着いたら私が電話するわ」と貞子が言った。私は歩きながら胸ポケットの名刺入れを出した。
ホテルのマスターからもらった名刺を確認した。
【 つづく 】

