デカローグ第3話:そっちはいいんかい!

神の名をみだりに唱えてはならない

こちらはホテル暴風雨10周年企画・10話からなる連作短編『デカローグ』第3話です。
本話だけでもお楽しみいただけますが、これまでのお話はこちらです⇨第1話 第2話

夏子は冬が嫌い。
雪国の冬はいつも暗くて、灰色で、空の上に分厚い膜が張っているような、その膜で圧し潰されそうな気持ちになるからだ。

童謡に「どじょっこふなっこ」という曲がある。4番まである歌詞の1番は春、2番は夏、3番は秋、4番は冬を表している。冬「てんじょこはった」と思った泥鰌や鮒は、春になり「夜が明けた」と思うのだ。

夏子もまさにそんな気分で春が来るのを待っていた。
春が過ぎ、夏が来て、真っ青な空に白い雲が沸き上がるのを見ると、心まで天高く昇っていくような気がした。

だから、自分の名前が好きだった。

誰かに名前を告げる度に、「夏生まれ?」と訊かれ、「違う」と答えた時の相手の反応を見るのも楽しかった。2月に生まれたのに「夏子」と名付けるなんて、両親もきっと自分と同じように冬が嫌いなのだ、と思っていた。夏に憧れ、夏に恋して、我が子にその思いを託したのだと。

でも違った。
夏子は五人きょうだいの二番目。姉は春香、一つ下の妹は秋絵、下の妹は冬美、一番下だけが男で、春生といった。つまり単なる季節なのだ。生まれた時期とは関係ない。どうしても男が欲しかったので、頑張って五人儲けたのだろう。五人目に、再び春が来た、というわけだ。

そんな夏子の部署に、この春、帰国子女の美夏が配属された。両親は日本人だが、生まれてからずっと、父親の仕事の関係でアメリカで育ち、大学もアメリカのを卒業したらしい。当然英語は堪能で、日本語よりも英語のほうがすっと出てくる。

おそらくそのせいもあるだろう。出てくる言葉に、とにかく横文字が多いのだ。

何かにつけて、会話に英単語が侵入する。
それも、いわゆる和製英語ではなく、本当の英単語が。例えばこんなふうに。

「このプロジェクトのリーダーはミスター山本ですね。クライアントにモアコミットメントしてもらうためのストラテジーをディスカッションしましょう。ミーティングのアジェンダを送りますので、お時間ある時にコンファームしてください」

生まれも育ちも東北の地方都市で過ごした夏子にとって、美夏のような人間は初めてだった。同僚たちの多くも、夏子と似たり寄ったりの文化で育ってきたので、夏子と同じような戸惑いを、美夏に感じていた。だから、陰で美夏のことを英単語の多いタレントに倣って「ルー」と呼んでいたりもした。

中でも、美夏がよく口にする単語に、「オーマイガ」というのがあった。
書類の山が崩れて床に落ちた時、机の角に足をぶつけた時、熱い珈琲をこぼした時、美夏はいつもそう言った。それが、アメリカのドラマで見た「Oh, my god」であるということを知った時、夏子はいたく感心したのだ。本当に言うのだ、と。

夏子も一応、地元の短大の英文科を卒業しているので、英語は嫌いではない。あまりに美夏の発音が良すぎるので、一瞬分からなくなることもあるが、これらの単語が示す意味も、辞書を引いたりしなくてもわかる。でもうんざりするのだ。

「今日もまた、ルーしてたよね。あの子」

夏子の先輩である、さつきが言った。この職場では、夏子も大概お局だが、それより5歳も年上のさつきは、もはやオババ扱いだ。最近都会では、年齢や性別や見た目によって人を差別したり優劣をつけることを忌避する潮流があるようだが、この辺りではどこ吹く風だった。

美夏は、そうした古い体質が残る社内で、浮いた存在になっていた。タレントばりのワードセンスのみならず、彼女の物怖じしないコミュニケーションも、それに拍車をかけた。

この町の文化に馴染んだ者なら容易に感づきそうなものだが、そもそも浮世離れした美夏に、自分が周囲の人々から疎まれていることを、気づく力はなかった。圧倒的アウェイな中でも人懐っこく立ち回るその姿に、夏子はしみじみ「鈍さと強さは紙一重」だと思うのであった。

「なっちゃんって、あの子に好かれてるよね。夏同士だから気が合うのね、きっと」

「夏同士?」

「だって、夏子に美夏でしょ?」

「ああ。そう、なんですか、ね……」

そう答えると、コンビニで買った珈琲を含みながら「そんなわけ、あるか」と心で突っ込む。ふと、前に美夏が言っていたことを思い出した。

娘を自らの女神として溺愛する父によって付けられたその名前は、「美しい夏」というような漢字や意味由来ではなく、「ビーナス」という音由来であったこと。アメリカでは親からも含め、ずっと「ビーナス」と呼ばれていたこと。だから日本に来て「みか」と呼ばれても、自分のことだとは思えないということ。そもそも夏という漢字が「なつ」と読むことも知らなかったということ。日本で生活するまで、夏野菜の「茄子」は夏と書くのだと思っていたこと。

「だから私、自分の名前を〝美味しいエッグプラント〟だと思っていたんです。まさかサマーのこととは思いませんでした」

さつきの謎カテゴリに「夏じゃなくて茄子なんだよね、あの子のは」と心で返し、美しい茄子を心で思い浮かべる。今日の夜は、黒々と照り光る茄子の揚げ浸しを食べよう。

「何ニヤニヤしてるの?」

さつきが訝しげに尋ねた。でも笑みの理由を、さつきに伝えるのはやめた。

帰り際、美香に呼び止められ、相談がある、と言われた。

話を聴こうと決めたのは、優しさなんかではない。それほど夏子にとって、美夏は好意的な存在でもなかった。それでも引き受けたのは、先輩としての役割意識と、美味しい茄子をふと一緒に食べてみたいと思ったからだ。

適当な店を知らないと言う美夏のために、夏子は、時々利用する、個室のある居酒屋へと連れて行った。ここなら、美味しい揚げ浸しが食べられるだろう。

「嬉しいです。私、夏子さんと飲みたかったんです」

美夏はそう言うと、生ビールをグイっと飲み干した。

「あーっ!美味しい」

思っていた以上に、美夏はよく飲み、よく笑った。この会の目的が何だったのかさえ、忘れてしまいそうなくらいに。

美夏がそれについて語り出したのは、生ビールを中ジョッキで二杯飲んで、三杯目のハイボールを一口飲んだ後だった。

「柳田さんって、どんな人ですか?」

「柳田さん? 営業の?」

「はい。そうです」

「どんなって……」

「……パートナー、いますよね?」

「ああ……。うん。結婚してるよ。お子さんもいるんじゃないかな」

「そうですか」

「……ん? どうしてそんなこと、訊くの?」

正直、この先にいい話が出てくる予感はなかった。美夏も自分から話をふっておきながら、口が重かった。だからこのままスルーしようとした。面倒なことには巻き込まれたくない。

それなのに。自らの意思に反して、夏子の口からは、問いが漏れた。

「……柳田さんに、何かされた?」

美夏はじっと夏子の目を見て、恐る恐る言った。

「キス、されそうに、なりました」

一瞬、言葉が出なかった。頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
やがて、よく考えてみれば、あの人ならそういうこともあるだろう、と思った。

なぜなら、かつて夏子にも似たような経験があったからだ。そのことが、社内で噂になったこともあった。
でも、柳田より五つ以上も年上の夏子なんかに、あの柳田がそんなことするわけがないというのが、みんなの評価だった。新婚の柳田と、行き遅れ扱いされている夏子。状況は、圧倒的に夏子のほうが不利だった。夏子の狂言とさえ思われた。

このことを美夏が知るわけはない。あるいは誰かに聞かされて、“経験者”である夏子に助言を求めているのだろうか。夏子は、「へえ……」と言ったきり、美夏の出方を待った。

「何故そんなことをしたと思いますか?」

「さあ? 私は彼じゃないからわからない」

「柳田さんって、私のこと好き、なんでしょうか?」

「うーん」

好きか嫌いかで言えば、好きなのだろう。でも、好きの閾値は低い。要は「いけそうな女なら誰でも」なのだ。そんな男に期待を持つのは、愚の骨頂でしかない。

なんと返せばいいのだろう。
シンプルに「違う違う。あの人は、誰にでもそうするの」とでも言えばいいのだろうか。でももし、美夏があの男に好意を抱いていたら……。自分が、ただのワンオブゼムであることをどう思うのだろうか。いや。アメリカ育ちの美夏だ。もっと気楽に、もっと容易に、恋愛するのかもしれない。そんなことをあれこれ考えて、答えに窮する夏子に、美夏がさらに迫った。

「こういうことって、日本の会社ではよくあることなんですか?」

「いや。うちの会社は古い体質だし、確かに昔はね、女性社員を飲み屋のホステスか何かと勘違いしてるオジサンとかいたけど、最近はさすがに⋯⋯」

「じゃあ、柳田さんはなぜ私にキスしようとした?」

「……わからないよ」

嘘をついた。
たぶん、あの男は「いける」と思ったのだ。職場で浮いている女は、優しくすればなびくと思ったのだ。夏子の時のように。
でも、あんな男の気持ちなど想像するのも不愉快だし、美夏の気持ちを知らない今、余計なことを言って、がっかりさせたくもない。美夏は柳田をどう思っているのだろう。何のために夏子にこんな話をするのだろうか。悪い考えが頭を過る。これ以上進めば、言いたくもない過去を話してしまうかもしれない。

だから、この話はここまでと決め、メニューを手にした。一品料理のページを開き、写真を指差しながら、
「茄子の揚げ浸し、頼むね。いい?」と訊いた。
美夏は、写真にチラリと目をやり、頷きながら、不満げに枝豆を一房取り、口に当て豆を押し出した。その行為が「もう一押ししてよ」と言っているようだった。

「もしかして美夏ちゃん。柳田さんのこと、好きなの?」

その問いに、美夏は間髪入れず「ノーウェイ!」と答え、頭を左右に振った。
けれども、一番手前にある嫌悪の表情の裏に、ほんの少しの自負と満足が滲んでいるのを、夏子は見逃さなかった。その時、店員が皿に盛られた茄子の揚げ浸しを運んできた。茄子はテカテカと光っていた。

その飲み会から一週間後、柳田が関連子会社に出向させられることを知った。

「なっちゃん、遂にやってやったわね」

「えっ、なんのことですか?」

「だから、あいつよ。出向だってね。あそこに行ったら、もう戻って来れないよ。戻ってきた人、いないもん」

「ああ、そのこと。出向になったんですね、柳田さん。何か、したんですか?」

「ルーのこと、口説いたんでしょ?」

「えっ。……それ、どうして知ってるんですか?」

「匿名のメールが届いたって。夏って人から。それって、なっちゃんのことだよね?」

「違いますよ! そんなこと、するわけないじゃないですか」

「あ、そうなんだ。……じゃ、夏って誰?」

「私です」

振り返ると、そこに居たのは美夏だった。

「夏じゃなくて、ビーナスです」

「ビーナス?」

さつきが呆れた顔で美夏を睨んだ。

「はい。私のメールアドレス。Venus」

「なんでそれが、夏になるの?」

「さあ? アイドンノー」

ツンとした顔で応える美夏を不審そうにさつきが見つめ、視線をゆっくり夏子に移動する。その目は、美夏の代わりに答えることを求めていた。

さつきの好奇心を満たすだけの身勝手な要請になど、応えることなく無視してもよかった。
でも、このまま夏子の密告だとさつきに思われるのも、癪だった。きっとさつきは、方々で言いふらすだろう。尾ひれ背びれをつけながら。

「私にだってよくわかりませんが、おそらく、密告者としての美夏ちゃんのメアドを聞きかじった誰かが、早とちりしたってことですかね? 柳田さんと私には遺恨があるから、結び付けたんじゃないですか? そのほうが面白いし」

「面白いって、誰もそんな……」

そう言って口ごもるさつきを見て、夏子は、噂の出どころはさつきなのだと確信した。そんな夏子に、美夏が問いかけた。

「イコン? イコンってなんですか? キリストの絵、じゃないですよね?」

首を傾げる美夏を無視し、夏子は沈む気分を振り払うかのように、さつきに向って言った。

「面白がってますよね、絶対。いいんです別に。がっかりするのは慣れてるので」

他人に期待などしない。
夏子はずっとそうだった。名付けの理由を知ったあの日から。

「オーマイガ。がっかりなんかに慣れちゃダメですよ。夏子さん」

美夏が怖い顔をして首を振った。

夏子はこれまで、できるだけ他人のことには踏み込まないようにしてきた。誰かに期待してがっかりするのが嫌だった。だから、誰にも深入りしないように、どこにも属さないように、生きてきた。願い事や幸運のアイテムを持つことも、神社仏閣に参拝することも、全部避けてきた。がっかりしたくなかったからだ。

知れば知るほど、思えば思うほど、人は期待を持ってしまうから。もしかしたら、この人には心の奥をさらけ出せるのかもしれないと、この人は裏切ったりしないと、思ってしまうから。だから、余計なことは表に出さず、言葉は全部飲み込んで、誰に対しても無でいることを心がけた。

寄り添うふりをしながら、さつきが夏子に対して向けていた悪意も、柳田に迫られそうになって美夏がどう思ったのかも、正直どうでもよかった。今更、柳田に未練もなかった。それなのに、心のどこかが痛くなる。がっかりして、傷ついている自分がいる。

「聞いていい?」

「なんですか?」

「美夏ちゃん、嫌だったの? あの人のこと」

「えっ、もちろんです。どうして?」

「そんなふうに見えなかったから」

「オーマイガ!嫌に決まってるじゃないですか。だってパートナーいるのに。ノー!あり得ない。聖書の教えに反します。こう見えて私、敬虔なクリスチャンですので。もうっ!信じられない!オー、マイガッ!!!」

思わず、夏子の口から「そっちはいいんかい!」という突っ込みが漏れた。

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

大日向峰歩作『デカローグ』第三話、いかがでしたでしょう。この作品は、ホテル暴風雨10周年記念企画「10」にちなんだ10話連作の物語です。ポーランドの巨匠・クシシェトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』リスペクト(くわしくは連載予告のエッセイを)。さて今回は十戒の第三、

3.神の名:神の名をみだりに唱えてはならない

が隠しテーマのお話。ヴィーナスもローマ神話の神ですが、キリスト教の神と違って、みだりに名を唱えても偶像を作っても怒られないんでしょうか。そういえば、唱えるだけでいい「南無阿弥陀仏」というお念仏もあります。みだりにオーマイガ! と唱えるのは、一神教に収まりきらない、もっと古い文化の潜在的記憶なのか。日本的因習をコミカルに踏み潰して転がる美しき茄子、夏子の複雑な苦笑。浮かんでくるそんな光景をスパイスに、ほろ苦い焼茄子が食べたくなりました。次回もどうぞお楽しみに!

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