【 魔談534 】モンマルトルの画家たち(35)

【 画廊酒場 】

画家が集合する酒場、なんて初めて見た。もちろん画家以外の客も大勢いるのだろうが、「あきらかに画家」といった風情の客があちこちにいた。彼らはスケッチブックを持っていたり、机上に広げて店内を描いたりしていた。
「おおっ、これはいいな」と感心するようなファッションの画家もいた。彼はフィッシングベストのようにポケットがたくさんついたチョッキを着ていたのだが、特筆すべきは背中の大きなポケットで、なんとF3(22cm × 27.3cm)のスケッチブックが入っていた。

「この光景は、日本じゃちょっとないだろうな」
私は酒場の室内を見回した。山小屋のように無垢の木の板が並んだ壁には、額と額が接するようにして大小の絵がぎっしりと並んでいた。じつに立派な額装でガラス板が入った絵もあれば、キャンバスの周囲に板を打ちつけただけの質素な額の絵もあった。ざっと50点はあるだろうか。ほとんどが風景画と人物画だった。風景画50%、人物画40%といったところか。

私の視線に気がついた貞子が説明してくれた。
「あれは全部このあたりの画家が勝手に持ってきて勝手に飾ったものなの」

なんと! 店の「お買い上げ」じゃないのか。
とはいえ、行きつけの酒場に自分の絵があるというのは、画家にとってはいい気分で飲めるにちがいない。

「でもたまに売れるのよ」
「おおっ、それは画家にとって嬉しいですね。どれぐらいの価格なんです?」
「たとえば……」
貞子はある絵を指差した。「あそこに少女の絵があるでしょ」
私はその絵を見た。(模写かと思うほどに)あきらかにルノアールの画風で描いた少女の油彩画だった。F5サイズ(27cm × 35cm)ほどの小品で、女性が好むような淡いピンクと金色の世紀末装飾を施した額装もなかなかよかった。

「あれは、明らかに売りを狙ってるわね」
「なるほど」
「いくらぐらいだと思う?」
「うーん、5000フラン(10万円)ぐらいですかね」

貞子は席を立ち、その絵のところに行った。額縁の右下に貼ってあった小さな紙を見て、席に戻ってきた。
「まあ正解に近いわね。6000フラン(12万円)よ」
絵が売れた場合は、20%を店に払う。そのように決まっているらしかった。

【 マリアンヌ・デッサン 】

あちこちの円卓でスケッチブックに描いている画家がいた。ワインの酔いがホロホロとまわるにつれて、私もまたそうした酒場画家のお仲間に入りたい気分となった。そこで自分のF4スケッチブックを出した。色鉛筆はどうするか。ちょっと迷ったが、10本も20本もジャラジャラと酒場のテーブルに出すわけにはいかない。黒、紫、ピンク……とりあえずこの3本を選んで机上に置いた。黒でガサガサッと酒場の雰囲気をデッサンし、紫とピンクでタッチを入れようと思ったのだ。

私のこの行動を見て一番喜んだのはマリアンヌだった。彼女は自分の胸を指差してにっこりと微笑んだ。
貞子を通すまでもなかった。「私を描くのでしょ?」と言わんばかりだった。
「oui」(ウイ)と返事した。机上に置いた3本の色鉛筆はマリアンヌのイメージに合わせて変更となった。直感で5本を選び直した。黒、青、紫、ピンク、ボルドー(深い赤)。

目の前にモデルを据えて「さて、描くぞ」と密やかな気合いを入れる瞬間、私はこの瞬間をこよなく愛している。手持ちの言葉ではなかなか表現が難しいが、自分の内部の様々な雑多な感覚が「描く」というただひとつの行為のために一斉に集合する、そのような快感がある。しかしここは異国であり、酒場であり、しかも私はワインでホロ酔い状態だ。「大丈夫か?」といった多少の不安はあったものの、ホロ酔いが私の行動に勢いをつけていた。

私は貞子の通訳を期待してマリアンヌに注文をつけた。椅子を動かして少し斜めに座り直していただいた。左手のこぶしをマリアンヌに見せて、彼女の視線を誘導した。「20分で描く」と伝え、自分の腕時計を外して机上に置いた。
これら一連の流儀もまた「制作に入るための心の準備体操」みたいな効果がある。私は制作に着手した。

ピエールは少し離れたところから私の行動を見ていたのだろう。ローズを連れて我々の席に戻ってきた。私は制作に没頭しており彼らをまじまじと見たわけではない。しかしモデルのマリアンヌの脇にピエールのジャケットが一瞬見えたことも、さらにその脇にローズのドレスが一瞬ひるがえったこともわかっていた。「また戻ってきやがった」と思ったものの、それどころではない。デッサン中の集中力はそれを崩すようなことを絶対にしてはいけない。そんなことをしたら作品のレベルがガタガタに落ちてしまうことを何度も経験してきた。

【 つづく 】


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