善財は、
しばらく言葉を失っていた。
山の空気は静かだった。
風が吹き抜けるたび、
木々がざわりと揺れる。
だが、
徳雲の周囲だけは、
どこか空気の密度が違うように感じられた。
いや――
違って見えているのは、
自分の方なのかもしれない。
善財は恐る恐る尋ねた。
「徳雲さまには……
その、“仏たち”が、
今も見えているんですか?」
「見えとるぞ」
徳雲はあっさり答えた。
「今も、
あちこちで説法しとる」
「……どこでです?」
「どこでも」
即答だった。
善財は黙る。
徳雲は笑った。
「困っとるな」
「はい」
「よし。
なら少しだけ見せてやろう」
徳雲はそう言うと、
善財の額へ指を向けた。
だが、
触れはしない。
ほんの少し、
空中で止める。
その瞬間だった。
世界が――揺れた。

善財は思わず息を呑む。
山の景色が、
一瞬だけ薄くなった。
いや。
薄くなったのではない。
“重なった”。
見知らぬ空。
見知らぬ雲。
見知らぬ大地。
金色の光に満ちた世界。
炎のような夕焼けに染まった世界。
花びらが空を埋め尽くす世界。
無数の景色が、
半透明のまま幾重にも重なり、
一瞬だけ善財の視界へ流れ込んできた。
そして――
声。
無数の声。
老人の声。
女の声。
若者の声。
低い声。
澄んだ声。
優しい声。
厳しい声。
それらが同時に響く。
まるで世界そのものが、
一斉に何かを語り始めたようだった。
善財は耐え切れず、
その場に膝をついた。
「うっ……!」
頭が割れそうだった。
徳雲はすぐに指を引っ込める。
すると、
景色は元に戻った。
山。
風。
木々。
いつもの世界だった。
善財は肩で息をする。
全身に汗をかいていた。
徳雲は、
少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「あー……
すまんすまん。
ちょっと多すぎたか」
「い、今のは……」
善財は息を整えながら呟く。
徳雲は空を見上げた。
「仏たちの世界じゃ」
まるで、
「今日は良い天気だ」
とでも言うような口調だった。
善財は震える声で言う。
「こんなものを……
ずっと見ているんですか?」
「うむ」
徳雲は頷く。
「だから忙しい」
善財は思わず叫んだ。
「忙しいどころじゃないでしょう!?」
徳雲は大笑いした。
山に笑い声が響く。
だが次の瞬間、
徳雲はふっと真顔になった。
「だがな、少年」
その声音は、
今までで最も静かだった。
「世界が広いということは――」
徳雲は、
どこか遠くを見る。
「救いの道もまた、
無数にあるということじゃ」
風が吹いた。
木々が揺れる。
徳雲の衣の裾が、
静かにはためいた。
「おぬしは、
“たったひとつの正解”を探してここへ来た」
善財は黙って聞いている。
「だが、
仏たちは皆、
違う言葉で、
違う姿で、
違う場所から人を導いておる」
徳雲は笑った。
「面白い世界じゃろう?」

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