【 ノンアルコールワイン 】
マリアンヌ、ピエール、私の3人はカウンターに行って空のジョッキを受け取った。私のワイン代は貞子が払った。この店ではカウンターに行って酒や料理をオーダーした時に、お代を払うようだった。
「ありがとうございます」
「いいのよ」貞子は笑った。
「今度、日本に帰った時はおごってちょうだい」
「わかりました」
(余談)これは実現した。この時から3年後、貞子は日本に来た。従兄弟が亡くなったのでその葬式に参列するのだと言っていた。我々は(貞子の希望で)横浜で会い、その時の飲み代は私が払った。
我々3人はジョッキを持って大樽の前に並び、ビールのように泡立つ赤ワインを持って席についた。貞子はカウンターで黒人店員となにやら話をしていた。料理のオーダーでもしているのだろう。貞子は席に戻ってくると、我々と同じようなジョッキを持っていた。色も泡立ちも我々のジョッキと変わりなかった。
「それはワインじゃないのですか?」
「ノンアルコールワインよ」
「ノンアルコールワイン! そんなものがあるのですね。ぶどうジュースとどう違うのです?」
「詳しくは知らないけど」と言って簡単に説明してくれた。早い話が一旦つくった赤ワインから、アルコール成分を抜いてしまうらしい。私のような酒飲みは思わず「なんともったいない!」と思うような話だ。
我々はジョッキで乾杯した。乾杯した直後にピエールはパッと席を立ち、ジョッキを手にして円卓の周囲で立ち飲みしている男たちのところに行ってしまった。「本当に落ち着きのない男だな」と呆れた目で見ていると、貞子が笑った。
「あの男はほっといていいのよ。いつもここに来るとあの調子。あちこちの客と話をするのが好きなの」
【 パステルデッサン 】
マリアンヌが私の方をチラチラと見ながら貞子になにか話し始めた。
「あなたの宗教はなにかと聞いてるわ」
「宗教!」
なるほどこれこそ異国というものだろう。酒の席で最初に聞いてきたのが宗教とは驚いた。私が返答に窮していると、その様子を見てとった貞子が(私の返事を待たず)マリアンヌになにか説明を始めた。
「日本人は宗教とは無縁の生活をしている人が多いの。この人もそう、と説明しておいたわ」
礼を言った後で、ふと思ったことを聞いてみた。
「通訳をしてくださり、本当に大助かりです。しかし面倒だと思ったことはないですか?」
「とんでもない」
貞子は(フランス人のように)両手を大きく広げたジェスチャーで笑った。
「通訳するのは好きなの。頭の体操にもなるし。それに時々はこうやって日本語を使わないと、どんどん忘れてしまうのよ」
(なんとなくの私の直感だが)貞子は日本語のみで、もっと私と話がしたいようだった。しかし同じ席で飲んでいるマリアンヌを無視するわけにはいかない。貞子は(私が話したことだけでなく)自分が話した日本語もちゃんとマリアンヌに(フランス語で)伝えていた。さぞかし面倒だろうと思うのだが、貞子はそうした会話をむしろ楽しんでいるように見えた。改めて「すごい人だな。ぼくはラッキーだな」と思った。
カウンターの黒人店員が貞子を呼んだ。貞子はカウンターに行って料理を持ってきた。「コールドローストビーフ」だった。驚くほど肉厚で、ずいぶん粗削りのブラックペッパーがたっぷりと散らしてあった。マリアンヌがカウンターに行ってナイフ&フォークを席に持ってきた。彼女が手際よく肉をカットしてくれたので、私はフォークを使うだけで良かった。なるほどこれは気が楽だ。
それにしても、泡立つ赤ワイン、分厚いコールドローストビーフ、肉の脇にはチーズケーキかと思うような厚切りのカマンベールチーズがゴロゴロと添えられている。ワインと肉とチーズ。まさにフランス。
貞子が自分のスケッチブックを机上に出したので、拝見した。(パステル専用のF4スケッチブックに)パステルで描いた人物デッサンだった。日本ではパステルを使ったデッサンというのはあまり見る機会がないが、この国ではゴッホもロートレックもパステルを使った人物デッサンを残している。ロートレックが酒場で描いたゴッホの姿もパステル作品として残っている。(人物デッサンを愛する画家にとって)この国では色鉛筆よりもパステルの方がむしろ身近なのだ。それにパステルは描いた後で指でこすって(色鉛筆ではできない)独特のタッチを表現できる。

ロートレックが描いた酒場のゴッホ
貞子のパステルデッサンにはうなった。それは「描写」というよりも幻想的な世界に浮遊しているような人物デッサンだった。しなやかな女性の体はマリー・ローランサンを連想させた。
スケッチブックのページをめくりながら熱心に見ていると、すぐ近くから「アーミー」と声がかかった。ふと顔を上げた私は仰天した。我々の円卓のすぐわきに立っていた女性には見覚えがあった。軽くウェーブしたロングの黒髪。豊かな乳房に彫りこまれた小さな天使。テディベア専門店脇の路地に私をひっぱりこんだ娼婦だった。
【 つづく 】

