【 倉庫アトリエの一夜 】
倉庫アトリエに戻った時点、つまり電球の下の明るい室内に入った時点で、名刺を貞子に見せた。
「一応、ホテルに連絡しておこうと思うのですが」
「いいわよ。私が電話してあげる」
貞子は私を連れてもう一度、アトリエを出た。なんとアトリエには電話がないのだ。石畳の道を渡った向かいに公衆電話があった。私は5フラン硬貨(¥100)を貞子に渡そうとしたのだが、彼女は受け取らなかった。

倉庫アトリエに戻ると貞子は自分の部屋に私を案内した。そこはガランとしたアトリエの奥の方にあり、周囲を合板で囲ったワンルームだった。合板で囲っただけなので、天井はなかった。ドアもない。貞子はカーテンを横にビッと引いて中に入った。
中は簡素な家具だけが配置されていた。ソファー、低いテーブル、ライティングデスク、ベッド、衣装箪笥、食器棚……その程度だった。テレビもラジオもなかった。合板の外側は棚になっていて、そこにキャンバスやら画材やらが置いてあった。なかなか居心地は良さそうだ。
「ここに住んでいるのですか?」
「まあね」
ちょっと曖昧な返事のような気がしたが、プライベートなことなのでさらに突っこんで聞くようなことはしなかった。
私は室内に入ることは遠慮してカーテンのところに立っていた。貞子はすぐにでも横になりたいだろうと思っていたからだ。
周囲を見回すと、倉庫アトリエの奥にはこうした居住区らしき部屋が5〜6部屋ほどあった。
「マリアンヌの部屋もあるのですか?」
「ないわ」
マリアンヌはすぐ近くのアパルトマン(アパート)に住んでいるという返事だった。なるほど「通い」の画家もいるのだ。
✻ ✻ ✻
貞子は倉庫アトリエのさらに奥に私を連れて行った。金属製の大きなドアがあった。横にスライドするタイプなのだが、かなり錆びていた。
ふたりがかりでそれを開けた。そこは「巨大倉庫の中の小倉庫」といった部屋で、折り畳み式ベッドが4台ほど置いてあった。我々はその中の1台を小倉庫から外に出して、ベッドの形にした。10枚ほど積んであった毛布も2枚出して、ベッドの上に置いた。
「今夜はこのベッドで寝てくれる?」
私は了解した。了解はしたのだが、さてそのベッドをどこに置いたものか?
「どこに置いてもいいのですか?」
「いいわよ」
なんとまあアバウトなものよ。ちょっと呆れてしまった。ベッドには車輪がついている。ゴロゴロと押して行けば、この巨大なアトリエのどこで寝てもいいということらしい。
貞子はかなり疲れていたのだろう。私に向かって(招き猫のように)笑顔で軽く手を振ると、さっさと部屋に入ってしまった。ビッと音がしてカーテンが引かれた。私もまたかなり疲れていた。なるべく(車輪の)音を立てないように注意してベッドを静かに押していき、とりあえずすぐ近くの壁ぎわにくっつけた。リュックサックをベッドの下に押しこみ、靴を脱ぎ、ベッドの上に乗って壁にもたれた。天井を見上げると、輝いている電球は1個だけだった。
ひとりになると、じつに様々な思いが次から次へと胸を去来した。こんな無防備な状態のベッドで寝ていいものかと思ったが、さほど不安はなかった。コンバースを履いたままで寝た方がいいんじゃないかと思ったが、さすがにそれはできなかった。横になって2枚の毛布をかけると、その数秒後には夢の世界に入っていた。
【 朝の鐘 】
教会の鐘の音で目が覚めた。自分がどこにいてなにをしているのか。そうした現実的な把握がまだ整理できていないような、一種の混沌としたカオス状態のままハッと覚醒した。同時に緊張し、ガバッと上半身を起こした。腕時計を見ると6時を少し回っていたが、室内の雰囲気に朝を感じさせるものは全くなかった。天井からぶら下がっている電球は5個ほどが点灯し穏やかな光を放っているので、室内はそこそこ明るかった。しかし全体の雰囲気は真夜中だった。
壁にもたれた状態で、しばらくのあいだぼうっと室内を眺めながら鐘の音を聞いた。鐘の音は数箇所から響いてくるように思われた。いずれもさほど近いようには思わなかったが、「近くに住んでいたらすごいボリュームだろうな」と思った。最も目覚まし時計をセットする必要はないので、その点は便利かもしれない。
ようやく目の前の現実を把握し、私はベッドに腰かけて靴を履いた。黒のハイカット・レザーコンバースのヒモをしっかりと結ぶと、ようやく現実感が戻ってきた。
【 つづく 】

