【善財くんがゆく!】第八話 善財くん、初めて海を見る:第二の善知識・海雲比丘 (1)

潮の匂いがした。

善財は足を止める。

今まで嗅いだことのない匂いだった。

風は湿っていて、
どこか鉄のような、
鉱物のような匂いが混じっている。

そのとき――

ゴオオオオ……

低く、絶え間ない音が聞こえた。

善財は顔を上げた。

次の瞬間、
視界が開けた。

「……うわ」

思わず声が漏れる。

そこには、
果てのない水の世界が広がっていた。

空と海の境目が、
よく分からない。

青とも灰色ともつかない巨大な水面が、
どこまでも続いている。

波。

また波。

さらに波。

白い飛沫を上げながら、
巨大な水のうねりが何度も岸へ押し寄せていた。

善財はしばらく、
その場から動けなかった。

(これが……海)

川とはまるで違う。

母なるクリシュナ河も、
善財にとっては巨大だった。

だが、
これは別物だ。

向こう岸が見えない。

終わりが見えない。

まるで、
世界そのものが脈打っているようだった。

轟音が腹へ響く。

潮風が髪を乱す。

足元の砂が、
さらさらと崩れていく。

善財は息を呑んだ。

(世界って……
こんなに広かったのか……)

そのときだった。

「海は飽きんじゃろう」

すぐ横から、
声がした。

善財は飛び上がるほど驚いた。

いつの間にいたのか。

波打ち際の岩に、
ひとりの僧が座っていた。

歳はよく分からない。

日に焼けた肌。

粗末な僧衣。

髪は短いが、
潮風のせいか乱れている。

だが何より奇妙だったのは――

その僧が、
まったく海から目を離さないことだった。

善財の方を見ない。

瞬きすら、
ほとんどしない。

ただ、
波を見ている。

寄せては返す波を。

永遠に繰り返される水の動きを。

善財は恐る恐る口を開いた。

「あの……」

返事はない。

僧は海を見ている。

善財は少し近づいた。

「あの、
海雲比丘という方を探しているのですが……」

僧は、
しばらく黙っていた。

波の音だけが響く。

やがて、
ぽつりと言った。

「探さんでも、
ここにおる」

善財は目を瞬かせる。

「え?」

「ワシが海雲じゃ」

善財は思わず姿勢を正した。

(この人が……!)

だが海雲は、
こちらを見ない。

ただ海を見ている。

善財は戸惑った。

(徳雲さまも変わった人だったけど……
この人はまた別方向だな……)

海雲は静かに言った。

「おぬし、
海を見るのは初めてじゃな」

「えっ」

「分かる」

海雲は小さく笑った。

「最初は皆、
同じ顔をする」

善財は改めて海を見る。

巨大な波が、
轟音とともに砕け散った。

海雲はその波を見つめながら言った。

「不思議じゃろう」

「はい……」

「ずっと見ておっても、
終わらん」

海雲の声は静かだった。

波に呑まれそうなほど静かだった。

「ワシはな」

海雲は言う。

「十二年、
これを見ておった」

善財は固まった。

「……じゅ、十二年?」

「うむ」

海雲は頷く。

「朝も昼も夜も」

さらりと言う。

善財は思わず海雲の横顔を見た。

冗談を言っている顔ではない。

本気だ。

本当に、
この人は十二年間、
海を見続けていたのだ。

善財は困惑した。

(な、何なんだこの人……)

徳雲は、
世界中を同時に見ていた。

だがこの男は逆だ。

どこにも行かない。

ただ、
ひとつの海を見続けている。

海雲は静かに呟いた。

「見ておるとな」

波が砕ける。

「だんだん、
分からなくなってくる」

善財は黙って聞いている。

「どこまでが波で、
どこまでが海なのか」

また波が来る。

「どこまでが自分で、
どこまでが世界なのか」

風が吹いた。

潮の匂いが、
二人の間を通り抜ける。

海雲は、
初めて少しだけ善財の方を見た。

その目は、
恐ろしいほど静かだった。

「そしてある日――」

海雲は再び海を見る。

「向こうから、
見え始めるのじゃ」


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