武帝と達磨大師 前編(出典:碧巌録第一則「武帝問達磨」)

<まえがき>

碧巌録とは、北宋初期、禅宗のお坊さんであった雪竇重顕さんが、『景徳伝燈録』という先師たちの生き様の記録千七百話の中から百話を選び出し、それに頌古という韻文を加えたものに、北宋晩期のお坊さんの圜悟克勤さんが垂示・著語及び評唱を加えたものです。
要するに、雪竇和尚が昔話を元ネタとして書き下ろしたセンス抜群の解説とシュールな詩に、百年ぐらい後になって圜悟和尚が読みにくくなるほど大量にツッコミ、のりツッコミを書き込んだものであるというわけで、ここに収録された文章は、少なくとも三回の編集を経ていることになります。
いわば「四次創作」的な存在というわけです。

用語解説:
碧巌録(へきがんろく)
北宋初期(西暦千年頃)
雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)
頌古(じゅこ)
北宋晩期(西暦千百年頃)
圜悟克勤(えんごこくごん)
垂示(すいじ)
著語(じゃくご)
評唱(ひょうしょう)


「武帝と達磨大師」 前編

千五百年ぐらい昔の話です。

中国の梁(りょう)という国の初代皇帝となった武帝は、とびきりの仏教ファンでした。皇帝自ら坊さんのような袈裟を着て「般若経」の講義をしたり、多数の寺院を建てて僧侶を養成したりと、宗教活動にとても熱心であったといいます。ついたあだ名が「仏心天子」だというのだから、そのマニアックぶりの想像がつこうというものです。

ある日のこと、皇帝が熱心な仏教の信者であるという噂を聞きつけて、遠くペルシャ地方からヒゲ面の老僧が面会を求めてきました。

彼こそがかの達磨大師だったわけですが、彼はお釈迦さまの死後千年経ったインドで仏教がヒンズー教などに押されてダメダメになってしまったのを痛感し、もうインドは諦めて新天地を求めて中国までやってきたのでした。

さぁ、仏教の信心なら誰にも負けないと自負する武帝と、仏教の真髄を伝承できる人材を求めてやまない正統伝承者との感動の対面です。

武帝は喜び勇んで報告しました。

「大師よ、私は仏教のお寺をたくさん建てて、お坊さんを大量に養成しました! これって、どんな功徳があることになるのでしょうか?」

達磨大師はポツリと言いました。

「なんの功徳もありゃしないよ。」

てっきり褒めてもらえると思っていた武帝は愕然として思わず尋ねました。

「ええっ!?功徳がない? ・・・じゃあお尋ねしますが、仏教の根幹となるものとはいったいなんなのでしょうか?」

達磨大師はまたもやぶっきらぼうに言いました。

「がらりとしたもんだ。何もない。もちろん「聖」とかもありゃしない。」

武帝はすっかりわけがわからなくなってしまいましたが、なんとか最後の質問を搾り出しました。

「・・・ていうか、あんた、いったい何者?」

達磨大師は吐き捨てるように言いました。

「しらねえよ!」

ほとんど会話が成立しなかったので、達磨大師はそのまま辞去すると、その足で長江を渡り、西に向かって引き返してしまいました。」

―――――つづく