魔の歌声(3)

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通常の都市生活では「3日も4日も会話しない」というのはまずないだろうと思う。「そんな生活、ありえない。絶対に嫌だ」という人が多いのではないだろうか。携帯も使わない。テレビなんかない。「念のため」ということで完全防水の小型ラジオはザックに入っているが、スイッチを入れた記憶はない。もちろん誰とも会話しない。……ぼくが日常生活を半ば強制的に中断し穂高に求めてきたのは、まさにこういう生活なのだ。
しかし「さて人間社会に戻ろう」ということになり、やむなく下山して売店や旅館で人と会話すると、自分でも驚くほどに新鮮なものを感じる。声が思うように出なくてかすれていたりする。「たった4日間でも声帯は退化するのか」と驚いたり、「やはり人間は会話しないと、色々な機能が退化するらしい」と真剣に考えたりする。

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モーガン・フリーマンによく似た風貌の初老の男は「あんた、怪我でもしたのか?」と声をかけたきり、向こうに歩いていった。そこに軽トラがあり、彼は荷台を覆っている青いビニールシートの下に無造作に手を突っ込んだ。中から出したのは、きれいな緑色のリンゴだった。再びぼくの前に戻ってくると、手慣れた感じで両手の親指を使い、リンゴを見事にパカッとふたつに割いた。ひとつをぼくに差し出しながら、じつに人懐こい笑顔で……「足をやられたらしいな」。

礼を言ってリンゴを受け取ると、彼はぼくの前の地面にドカッと座った。ぼくは青リンゴをかじりながら、浮き石にやられた状況を説明した。自分の声が思うように出ないことに驚いたが、その一方で、久々に使ったノドにリンゴの酸味がすばらしくうまかった。リンゴの味にこれほど感動したことはない。改めて感謝の目で相手を見ると、幾重にも泥がこびりついたゴム長靴も、ナンバープレートが15度ほど傾いている軽トラも、そして御本人の風貌も、かなり年季を感じさせるものだった。このあたりにリンゴを卸している農家さんだろうと見当をつけてその味を褒めると、彼は喜ぶかと思いきや、「なにをいまさら」という顔つきだった。
「あたりまえよ。信州の水で栽培してる」

これには笑った。「世界一の水だ。それを吸って育ったリンゴだ。まずいハズがなかろう」と言わんばかりだ。こういう男は好きだ。リンゴをかじりつつ雑談となった。ぼくは沢に降りて耳にした謎の声について語った。
「……どこだ?」
ぼくは地図を出した。周囲が一気に暗くなってきたので、胸ポケットから懐中電灯を出してその沢を照らした。
「……どんな声だ?」
ぼくはあらんかぎりの高音を発した。
「ヒイィーッ……、ヒイィーッ……」
通りかかった御婦人はぼくの努力を見て笑ったが、彼は笑わなかった。
「ふーむ」としばし真剣に考え、暗闇の森で鳴いていたことを再度確認し、そして言った。
「そりゃヌエだな」
「……ヌエ?」
「ああ、妖怪だ」
「……妖怪!」
もちろん彼は思ったとおりをそのまま伝えたのだろう。しかし期せずしてその返答は、ぼくのツボに見事に入った。こういうことになるともう、ぼくは身を乗り出して確かめずにはおれない。足の痛みも忘れる勢いで、もう一度聞いた。
「妖怪の声だというのですか?」
彼は真顔でうなずいた。

・・・・・・・・・・・・・・・・( つづく )
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