雨を待つ布5

「で、電車には間に合ったの?」

千与子が訊いた。

「はい。ギリギリでしたけど。向こうの電車って、ちょっと待ってくれたりするんですよ。この人、乗るってわかったら。東京とかじゃ、絶対ありえないけど。駆け込んでても、容赦なく目の前でドア閉められますから。ハハ」

「都会は人が多くてきりがないからね。でも、本数も多いんでしょ?」

「そうです。一つ乗り遅れても大体5分ぐらいで、次のが来ます。待っても10分かな」

「へえ。10分! まあ、田舎は、そういうわけにいかないからねえ」

驚く恵美子に苦笑しながら、東が答える。

「はい。その電車に乗り遅れたら、次、3時間後でした」

「良かったね。間に合って」

千与子はそう言うとニコッと東に微笑み、東は小さく頷いて続けた。

「それに乗れないと、次の目的の、久慈から乗る『東北エモーション』に間に合わないところでした」

「あっ、それ知ってる。〝走るレストラン〟ってやつでしょ?」

持っていた珈琲カップをテーブルに置きながら、千与子が反応した。

「走るレストラン? 食堂車みたいなこと?」

恵美子が、二杯目の珈琲をカップに注ぎながら訊いた。

「先生、そんなんじゃないですよ。もっとオシャレなんです。で、美味しかった?」

そう言うと、千与子は身を乗り出して、東の答えを待った。「あー」と言って苦笑いする東に向かって、千与子は詰め寄った。

「えっ、美味しくないの? 有名なシェフが監修してるんでしょ?」

東は、ばつが悪そうに、苦笑いを浮かべながら答えた。

「美味しかった、んだと思います。久慈からの上りは、デザート列車なんです。食事が出るのは、八戸からの下りで」

「あー、そうなんだ。じゃあ甘い物だけ?」

どこか不満気な様子で、千与子が尋ねた。

「まあ、そうですね。カルパッチョ的なものもちょっとありますけど、ナッツ類とかも。どっちも酒のつまみ的な感じで。飲み物も出ますし。ワインとか日本酒とか」

「あっ、飲めるんだ」

先ほどまでのしかめ面から一転し、千与子は満面の笑みを湛えた。
その姿を見て、恵美子は少し呆れたような素振りを示しながら、「あなたも、甘いものが苦手なの?」と東に尋ねた。

「いいえ。大好きです」

「じゃあなんで、そんな言い方なの?」

「電車はとっても良かったです。デザートも景色も。種差海岸って言うんですか? あのあたりの車窓なんかも、見通しがよくて。でも……気になっちゃって。布のことが。手触りが妙に手に残ってて」

「布? ……ああ、そのおばあさんの?」

「はい。どういうふうにして、あの小さな端切れになってしまったのか、詳しくは聞かなかったんですよね。訊けなかったというか。その時におじいさんが着ていたものなのか、それとも、箪笥に大切にしまっていたものが流されて、そうなったのか……」

「そうね。訊けないわよ」

恵美子はそう言うと、手にしたカップをテーブルに置いた。東はそんな恵美子にチラリと視線をやると、目を伏せ、まるで独り言を言うかのように呟いた。

「でもきっとその上着には、おじいさんの匂いとか汗とか思い出がたくさん付いてたと思うんです。着ていた人がいない今、もしそれがあったら、懐かしくなって匂いを嗅いだり、袖を通してみたりできるのになあって……。あんなふうに〝お守り〟って言って、大切に持ち歩いてるくらいなんだから、きっとそれは大切な上着だったと思うし、おじいさんのことも大好きだったんだろうなって思ったら……」

東は、そこで言葉を詰まらせた。
頬に一筋の涙が伝う。その涙を咄嗟に手で拭って、東は続けた。

「だから、作りたくなったんです。あの布の続きを。端切れじゃなく。せめていとさんが、顔を埋められるくらいの大きさの布を」

「う……ん。気持ちはわかるけど、たとえあなたが似たものを作れたとしても、それはそのおばあさんの思い出の布とは違うのよ。それこそ、おじいさんの匂いも汗も温度も吸ってない。思い出も」

恵美子が優しくたしなめた。

「はい。そうですよね。自分でもそう思います。それは違うって。どれだけ頑張っても、もう二度と取り戻せないものだってことは、わかってます。でも、私、……作りたい、んです」

それまで、なんとか堪えてきた涙が、堰を切るように一気に溢れた。

 

正時ごとに鳴る壁掛け時計から、パッヘルベルのカノンが静かに流れた。
その音が止み、恵美子が静かに言った。

「話は分かったけど、それでどうして私のマフラーと同じものを作りたいとなるわけ?」

恵美子の言葉に賛同するかのように、千与子も頷く。

「これ、先生のマフラーと、似てませんか?」

東は恐る恐る、もう一度スマホの写真を拡大して見せた。

「うーん。これじゃちょっと小さくて、よくわからないわ」

恵美子は眼鏡を外し、じっと目を凝らして見つめた。
そしておもむろに、テーブルの上に置かれた眼鏡をかけて言った。

「大体、そのおばあさまの端切れっていうのは服地なのよね? 服地とマフラーだとちょっと違うのよ。そもそも扱う羊毛の種類も違ったりする。マフラーは軽さが欲しいから、柔らかくて肌触りの良い羊毛を選んでふんわり織るけど、服地は丈夫じゃないといけないから、弾力やハリのある羊毛で、しっかり打ち込んで織るの。平織もあるけど、普通は綾織よね。要は、この写真の布地と私が織ったマフラーでは、同じホームスパンでも風合いからなにから全く違うのよ。だからこれと同じものを作っても、そのおばあさんの端切れの代わりにはならないと思うのだけど」

恵美子の言葉にショックを受けて項垂れる東を見て、不憫に思ったのか、千与子がまたしても助け舟を出した。

「ホームスパンの服地って見たこと、ある?」

「はい。いとさんに出逢った、去年の夏からずっと気になったので、こういう布地のことを何て言うのか調べました。写真ではよくわからないけど、手触りとか憶えてるからそれも伝えたりして」

「誰に?」

「松阪にいる私の祖母です。地元には、松坂木綿という織物があって。私が小さい頃、町に『松阪木綿手織りセンター』っていう、松阪木綿の普及活動したり、手織り体験のできる場所ができて、祖母も、そこで織ったり、教えたりしてました」

「そうだったの。今も、おばあさまは織られてるの?」

「いいえ。施設に入っているので。でもまだ元気なんです。93で、頭はちょっと呆けちゃってるんですけど」

「そうなの」

「でも時々ふっと正気になる瞬間があって。私がこの布のこと訊いたら〝ホームスパンじゃないか〟って言ったんです。盛岡のほうでは、羊毛を手紡ぎして織って作る生地があるって。紳士服の上着の生地なら、たぶんそうだって」

「織物をする人は、他のところの生地もよく知ってるのよね。そう。おばあさまが……」

「はい。そしたらなんかもう、居てもたってもいられなくなって。時間ができると盛岡に来て、ホームスパンの教室とか工房を回りました。その時に服地も見ました。でも、あんまり相手にしてもらえなかったです。もちろん、凄く丁寧に話を聴いてくださるところもあったし、織ったものも色々見せてもらったけど、なんかちょっと違うと思ってしまって」

「最近は、服地を織る工房も減ってるしね。残ってるところはビジネスとしてしっかり動いてるから、生徒さんみたいなのは取らないし、一見さんはあまり相手にされないかもしれないわね」

東は、よほど恵美子の言葉が沁みたのか、大きく頷いた。

「気づいたら、いとさんに会ってからもう一年も経ってしまっていて……。どうしよう、みたいな。だから藁にも縋る思いで。クラフトフェアなら、もっといろんなホームスパンに出逢ったり、気軽に作家さんとお話できたりするかなと思って来たんですけど……」

「なるほどね。で、意外と少なくてびっくりした、と」

「はい。盛岡はホームスパンの街だと聞いてたので、そのカテゴリーさえないのがちょっと意外でした。でもこの先生のマフラーを見た時、何故だかわからないけど〝これだ〟って思ったんです。上着の生地とは違うかもしれないけど、いとさんのお守りは、こういう感じだったんです」

「端切れになって隙間ができたから、そう思えたのかしら。でもむしろ経年劣化で、元の生地より硬くなっていくとは思うんだけど」

「もしかしたら、いとさんが丁寧に洗ったからかもしれません。がれきの中で端切れを見つけた時、泥に塗れてグシャグシャになってたらしいんです。でもいとさんは、それを丁寧に何度も何度もウール用の洗剤で洗ったって。乾かすときも、空気を当てて、ふんわりするように」

「ああ。そういうこと」

「その端切れを見つけた時、おばあさんは、本当に宝物を見つけたような気持ちだったのかもしれませんね。だから、大事に大事に洗った。……先生、お手伝いしましょうよ。私もその布織るの、手伝いたいです」

千与子が恵美子を促す。恵美子はしばらく逡巡していた。

 

どうして自分のマフラーなのか。

ふと、師である堀のことが頭をよぎった。堀の織った服地と老女の夫が身につけていた上着。
東は、そのつながりを鋭い感性で感じ取ったのではないか。

違うかもしれない。
でも、そうかもしれない。

選ばれた戸惑いと求められた嬉しさ。そして、気づかれた喜び、継承した誇り。
それでもおそらく東が想像する布にはならないという信念。
相手の期待に応えることの難しさ。

断ってしまったほうが、がっかりしなくていいのかもしれない。
織り上がった時、東の顔に少しの失意を見つけてしまったら……。
悲しませたくないし、悲しみたくない。

でも、応えたい。

それは、作り手としての矜持なのか、一人の人間としての思いやりなのか。それとも師への恩返しなのか。恵美子は自分でもわからなかった。
水に触れたドライアイスが解けて消えていくように、その曖昧な思いもまた、天に上がっていくのを感じながら、恵美子は言った。

「わかったわ。じゃあ、やってみましょう」

恵美子の言葉に、東は深々と頭を下げた。

 

註:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。

(作:大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『雨を待つ布』第五話、いかがでしたでしょう。東の中の、「その時、その場にいた本人でないとわからない何か」は、わかるようで、その全容は当然見えません。どこか自己完結した情熱にさえも思えます。でもそれが東を動かし、連鎖して千与子を動かし、恵美子を動かし……宮古で生まれた不思議な縁が育つ瞬間を目撃した今回。今後、もっと大きく育つのか!? 次回をどうぞお楽しみに。
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