
それからほぼ毎週末、東は恵美子の教室に通ってきた。
恵美子と千与子の心配は杞憂だった。
祖母の影響なのか、東の織りの感覚は鋭く、初めてとは思えないほど上手で、まるで乾いた大地に雨が沁み込むように、あっという間に技術を習得していった。
だが手紡ぎは、そういうわけにはいかないようだった。
「はあ、また切れた」
東が頭を抱えて、小さな溜息を洩らした。
「あらあ。苦戦してるね。ようちゃん、織りはあんなに上手なのに」
千与子が、項垂れる東に声をかけた。
教室には、恵美子と千与子と東の他には誰もいない。
他の生徒は相変わらず、気まぐれに現れては静かに作業だけして帰る、幽霊部員のような存在だった。
反面、この数カ月の間、毎週のように通って来ては、臆することなく誰とでも話す東は、すっかりこの教室にも馴染み、いつしか、千与子にも下の名前で呼ばれるようになっていた。
「小っちゃい時におばあちゃんが織るのをずっと見てたから、織りにはなんとなく馴染みがあるんだけど、これは……。見るとやるとで大違いです。先生のやってるのを見てると、ふわふわした雲が崩れて、飛行機雲みたいに一筋の雲ができるような感じで糸が紡がれていくのに、私がやると、砂時計みたいに膨らんだり、細くなったり。で、結局プツンと切れちゃう」
「確かに、先生の手の動きは手品みたいだよね。綿あめみたいな羊毛が、手のひらの中で細くなってゴムみたいに伸び縮みしたかと思ったら、いつの間にかトンネルの中に吸い込まれていく、みたいな」
手紡ぎという行為に対し、東に負けず劣らず詩的な表現を繰り出す千与子は、自分のその言葉に大きく頷いた東を見て、満足気に続けて言った。
「先生の所作は、自然に見えて自然じゃないのよね。そこには、ものすごく熟練した技があるわけ。でも表面には、それが出てこないのよね」
「そうそう! だから体の動きだけ見てても、やり方を聞いても、全く身に付かないの」
東はそう言うと、糸車のボビンから自分が紡いだ糸を引っ張り出してしげしげと見つめ、項垂れた。
「こればっかりやってるのに、ちっとも前に進まない。もう年越しちゃったよ……」
ちぐはぐな会話で共鳴し合う千与子と東に、呆気にとられながら恵美子が訊いた。
「なんだか二人とも詩人みたいね。私の手紡ぎに対して素敵な表現ありがとう。……でも、木綿にも手紡ぎはあるでしょう? おばあさま、やってなかった?」
そう問われ、東は記憶を遡るように考え込み、暫くして、言った。
「あんまり記憶にないんです。作業場にはあった、ような気もします。けど、祖母はたぶん使ってなかった、んじゃないかと……」
「そう。でもまあ、綿と毛では道具も違うしね。もちろん、やり方も」
「へえ。綿の手紡ぎって、どうなんですか? 難しい?」
千与子が恵美子に尋ねた。
「うーん。一度だけさせてもらったことはあるのだけど、私はうまく紡げなかったわね」
「えーっ。先生でも?」
「私たちがやってるのとは、また違うんだと思う。何て言うのかしら、粘りがないというか。たぶん繊維が短いのね。油分もないし。勝手が違うのよ」
「ふうん。そうなんですね。でも、ヤクとかも繊維が短いじゃないですか。前に先生、ヤクの毛も紡いでましたよね?」
「ああそうね。確かにあれも短かった。でも、それともまた違うの。とにかくぶつぶつ切れる感じなのよね」
「今の私みたいですね……」
千切れてフライヤーの穴に吸い込まれてボビンに巻き取られ、糸束に紛れ込んだ糸の端を、目を凝らして探しながら東が呟いた。その姿を見て、千与子が茶化す。
「よかったね。先生と一緒じゃん」
東は恨めしそうな顔で千与子を睨んだ。
「こうなっちゃうと、探すのは難しいのよね」
そう言って、ボビンの糸束に埋もれた糸の端を一緒に探しながら、恵美子が優しく言った。
「いや。でも東さん、だいぶ細く紡げるようになったわよ。その糸、取っておいてね。これから紡ぐ糸は、その糸と一緒に、これまでの糸とは別にしておいて」
千与子も傍に来て、覗き込む。
「あっ、ホントだ。凄いじゃん。私、そんなに細く紡げないよ」
東は「えーっ、そう?」と言いながら、嬉しそうにはにかんだ。
立春を過ぎても、東の教室通いは続いていた。
それどころか、週末は盛岡のホテルに宿泊し、二日続けて通うようになっていた。
「ようちゃん、また今日も北ホテル?」
「うん」
「あそこ、駅から遠くない? バスで行くの? もっと駅に近いホテルに泊まればいいのに」
「前は私もそう思ってて。電車乗って旅する時は、始発で移動するから、駅近のビジネスホテルしか泊まらなかったんですよ。歩いて5分以内の。だけど、クラフトフェアの時に会場の近くにある北ホテルを見て〝素敵〟って思っちゃったんですよね。で、一回泊まったら、病みつきになっちゃって……」
「病みつきって……。どこがいいの?」
千与子が不思議そうな顔をして訊いた。
「なんて言うのかな……。落ち着いてるんですよね。私が泊まってる価格帯では、部屋も別に普通のビジネスホテルだし、そんな広いわけでもないし、水回りもそれなりに年季が入ってる感じだし、別にこれと言って何かあるってわけじゃないんだけど、ロビーの雰囲気とか、ホテルのフォントとか、何かわからないけど、しっくり来るんです」
「へえ……」
東の答えを受けても、千与子は今一つ納得していないようだった。その二人を見て、恵美子が苦笑いを浮かべ、間に入った。
「でもそんなにホテルばかり泊まってたら、お金も大変でしょう? 家に泊まってもらっていいのよ。部屋はあるんだから」
「いえいえ。それは申し訳ないので。それにホテルいいんですよ。一階に光原社の支店が入ってて」
「ああ。北の光原社ね」
「そう、それです。あそこ見るのも楽しいし」
「民芸物がいろいろ売ってるわよね。それならいいけど。じゃあせめて、できるだけ早く織り上げましょう」
「でも先生、それにはもう少しうまく紡げないと……」
東は自分で紡いだ糸を見て、肩を落とした。
「そんなに気を落とすほどでもないわよ。そろそろ織ってみましょう。糸もそれなりに溜まってきたと思うし。こないだ、別にしておいてって言った糸、どれぐらいある?」
「エーッ。いけるかなあ。これです」
そういうと、東は袋に入った糸の束を見せた。そこには、結構な量の糸があった。
「うん。これなら大丈夫。それにそんなに悠長なこと、言ってられないんじゃないの? 早く宮古のおばあさまに渡したいんじゃないの?」
東は「そうだった」と言わんばかりにハッとして頷いた。
その姿を見て、千与子がおそるおそる口を開いた。
「実は気になってたんだけどさ、ようちゃん、そのおばあさんに会ったのって、一回だけなんだっけ?」
「うん」
「じゃあ、前に見せてもらった写真とか、おばあさんが泥のついた端切れを丁寧に洗ったっていう話は、その時に?」
「あ……。ううん」
「えっ。じゃあ、いつ?」
「……いとさんと会った時、そのまま別れて私、電車に乗ったじゃないですか。久慈行きの」
「ああ。東北エモーションだっけ? おばあさんの端切れが気になって、デザートの味がわからなかったってやつでしょ」
「うん、それ。でね、結局次の日に戻ったんですよ、宮古に」
「そうなの?」
「うん。いとさん、天気のいい日はあそこのカフェにいるって言ってたから、もしかしてまた会えるかな、と思って。でもいなくて」
「ああ、まあそうか。そう毎日はね」
「私、あの時急いで行ったから気づいてなかったんだけど、落し物してて。この、三鉄のスマホクリーナーなんだけど」
そう言うと東は、スマホショルダーにぶら下がっている、いかにも近所のおばあさんが手作りしたような、フェルトで作られた三鉄のマスコットを千与子に見せた。
「何これ?」
「前に三鉄に乗った時に、久慈駅で買ったキーホルダー」
「へえ……。いかにも〝おばあちゃんの手仕事〟って感じだね。私は好きだけど。可愛いし」
「その落としていったのをいとさんが拾って、お店の人に渡してくれたみたい。当然、名前や連絡先が書いてあるわけじゃないから、私に連絡のしようがなかったわけで、それを次の日、店に行った時に、偶然忘れ物コーナーにあるの見つけて」
「へえ、よかったね。他のところじゃなく、落としたの、そこで」
「うん。これお気に入りだから。お店の人に私のだって言ったら、その人、私のことも覚えててくれたみたいで。いとさんと仲良しらしいんです、その人。だから〝いとさんにお礼が言いたいから、今日、ここで待ってたら会えますか?〟って訊いたら……」
東は、そこで口を瞑んだ。
「うん。……えっ、何かあったの?」
その先をなかなか言い出さない東に、千与子は何かを察し、戸惑った様子で訊いた。
千与子に催促され、東は漸く話し始めた。
「いとさん、椅子から立ち上がって手押し車を掴もうとして、バランス崩してこけちゃって、骨折っちゃったらしくて……」
悲しそうに俯く東の顔には、話してしまった後悔が滲んでいた。悔しそうに、申し訳なさそうに、小さな声で続けた。
「私が立つ時に、ちゃんと手押し車の位置を元に戻しておけば……」
「それは考え過ぎよ」
東の言葉の続きを制するように割って入った恵美子のその言葉は、降り続く雨の中、ふっと陽が差したみたいに、後悔に囚われる東を安堵させた。
でもその光も、一瞬のうちに再び厚い雲で覆われてしまう。
「そうなのかな。でも、そうやって落ち込んでたらお店の人が……その人、鈴木さんって言うんですけど、今の先生みたいに励ましてくれて。それで、忘れ物を取りに来たのでなければ、何しに来たのか訊かれて。あの端切れのことが気になって戻ってきた、って話したんです」
「何て言ってた? その人」
千与子がちょっと強い口調で訊いた。その様子を受けて、東は少し委縮した。
「ごめんごめん。なんて言うのかな?〝端切れが気になって戻って来る〟ってさ、ちょっと普通じゃないっていうか……。ようちゃんが悪い人じゃないのはわかるだろうけど、普通だったらちょっと警戒しちゃうっていうか、そういうの、ある気がして……。どうなのかな?って」
千与子のフォローにならない付け足しに、東は苦笑しながら頷き、「そうだよね」と言った後、暫く沈黙し、徐に続けた。
「千代子ちゃんの言ってること、わかる。確かに変だと思われるかもね。でもね、鈴木さんもいとさんに、あのお守りの布を見せてもらった時、感動して、思わず写真を撮らせてもらったんだって。こないだ私がお二人にお見せした、あの端切れの写真は、鈴木さんが撮ったその写真なの。そして、いとさんが、それをとっても丁寧に洗ったって話を聞いたんです」
「へえ。その人が見ても感動しちゃうような端切れってこと? ……見てみたいな、生で」
「それで、おばあさまのお怪我は? 良くなったのかしら?」
物欲しげに頬杖をつく千与子を横目で見て苦笑しながら、脱線した車両を元に戻すように、恵美子が訊いた。
「それは治ったらしいんです」
「なんでようちゃん、知ってるの?」
「写真を貰った時に鈴木さんとLINEのアドレスを交換してて」
「えっ、よく交換してくれたね。だって知らない人じゃん。なかなかしないよね、普通」
千与子は、戸惑い気味に言った。それを見て、恵美子が庇うように言葉を添えた。
「まあそれだけ真剣に見えたんじゃない? 東さんのことが。ここに初めて来た時みたいに。気圧されちゃったのよ、その人も」
東は恥ずかしそうに俯いて、詫びた。
「謝ることないわよ。ちょっと変わってる人だとは思うけど」
「……まあ、あの勢いなら、教えちゃうかもね」
千与子は東を見て苦笑いを浮かべ、続けた。
「じゃあその後も、その人とやりとりしてるの?」
「はい。それで教えてもらったんです。退院したよって」
「その人は、ようちゃんが例の布を作ろうとしてるの知ってるの?」
「はい。詳しいことは話してませんけど、今、教室に通ってるってことは言ってます」
「で、何て言ってるの?」
「まあ普通に、頑張れ、って。でも……」
「でも?」
「…………意味ないんじゃないかって」
「ああ」
恵美子と千与子は目を合わせて、互いに小さく頷いた。
「まあ、そうなるよね。作ったところでその布にはならないし」
「もちろん、それもあるとは思うんだけど……」
そう言うと、東は一層顔を曇らせて黙り込んだ。明らかに何かがあるのがわかった。
恵美子と千与子は、東から出る次の言葉を、固唾を呑んで待った。
「……いとさん、もうあそこには来れないんじゃないかって」
註:この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『雨を待つ布』第六話、いかがでしたでしょう。一度会っただけのおばあさんに布を織ってあげたいという、ただでさえ漠とした話に、まだ隠された不安要素が。それでも遠い盛岡に毎週末を投じて通ってくる東の熱意。いったい、いとさんとあのカフェで再会できるのか、できなかったら東はどうなってしまうのか、心配になってきます。次回をどうぞお楽しみに。
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