
文殊菩薩に弟子入りして色々教えてもらおうと思っていた善財は、
思いもよらない提案に絶句した。
「オイ、善財……」
硬直している善財を見かねて、
善誓が後ろから声をかける。
その声にハッと正気に戻った善財は、
しばらく黙って文殊を見つめていた。
(ここで退いたら、きっと一生後悔する――)
善財は顔の前で合掌すると、断固たる口調で宣言した。
「わかりましたっ!
私は旅に出ます!!」
そして大勢の善知識に学び、
それを『生きとし生けるものたちのために奉仕する』ために
必ず役立ててみせます!」
文殊は深くうなずいた。
「うむ。よい返事だ。
たくさんの善知識との出会い、別れ。
その中から『最高の悟り』をつかみ取るのだ。
そして――
命があったら、また会おうじゃないか」
「はいっ!
それでは、行ってきます!!」
文殊は続けた。
「よし。まずは南だ。
ここから南に行ったところに
可楽という国がある。
その地にそびえる妙峰山に、
徳雲という名の修行者がいるはずだ。
彼のもとに行って、こう尋ねなさい。
『生きとし生けるものたちのために奉仕するには
どうすればよいのか?』
とな。
そうすれば徳雲は、
必ずやオマエのためになる話をしてくれるだろう」
善財はそれを聞き、
自らの進むべき道が具体的に示された喜びに
頬を紅潮させながら文殊の足もとにひれ伏した。
そして――
血沸き肉躍るようなワクワクした気持ちと、
ひょっとしたらもう二度と文殊と会えないかもしれないという悲しみが
ないまぜになった心で胸がいっぱいになり、
目から大粒の涙を流しながら
説法会場を、文殊のもとを去ったのであった。
善賢や大勢の仲間たちに涙を見られぬよう、
必死に服の袖で顔をぬぐう善財に善誓が声をかける。
「オイ、本気なのかよ」
「ああ、オレはいつだって本気さ!
人生の指針が得られたんだ。こんなに嬉しいことはないよ」
「まったく。オマエのその素直さというか、
口車に乗せられやすさというかは天下一品だな……」
「そういう言い方をするなよ!
人がせっかくその気になっているのに」
「ああ、悪い悪い。褒めているんだよ」(苦笑)
「さあ、まずはみんなに、
そして帰ったら父さんたちに
旅立つことを伝えないとな」
「オマエとは長い付き合いだ。
その気になったら止められない性格は
よくわかっているつもりだよ。
寂しくなるけど――応援するよ」
善財はふと振り返った。
夕暮れの空の下、
説法会場の仏塔が静かにそびえている。
その足もとには、
まだ文殊菩薩の姿が小さく見えていた。
善財は深く一礼した。
(さあ――旅の始まりだ)
だが、その前にやるべきことがある。
家に帰り、父や母にこの決意を伝えねばならない。
そして、旅立ちの支度もしなければならない。
善財はもう一度だけ仏塔を見上げた。
文殊菩薩の姿は、すでに人々の向こうに小さく霞んでいる。
善財、十六歳。
五十三人の師をめぐる長い旅は――
まさに、始まろうとしていた。

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