善財は、
海雲の横顔を見つめた。
「向こうから……
見え始める?」
海雲は頷く。
「うむ」
波が寄せる。
砕ける。
引いていく。
海雲は静かに続けた。
「最初はただの波じゃ」
「はい」
「だが、
見続けておるとな――」
海雲は、
砂浜へ指を向けた。
「同じ波が、
ひとつもないことに気づく」
善財は海を見る。
確かに、
波はどれも似ている。
だが、
まったく同じ形はない。
砕け方も、
音も、
光り方も違う。
海雲は言う。
「風が違う。
潮が違う。
月が違う。
海底の流れが違う」
波が来る。
「つまり、
ひとつの波には、
世界全部が関わっておる」
善財は黙って聞いていた。

海雲は続ける。
「すると今度は、
“見えてくる”」
「何がです?」
「つながりじゃ」
海雲の声は静かだった。
「風と波。
月と潮。
空と海。
遠い嵐と、
今ここへ届く水の動き」
そして、
海を見つめたまま小さく笑う。
「人も同じじゃ」
善財は息を呑む。
海雲は言った。
「ひとりで生きている者など、
どこにもおらん」
波が砕ける。
「怒りも、
悲しみも、
喜びも――」
また波。
「どこか遠くから流れてきて、
誰かへ伝わっていく」
善財は、
徳雲の言葉を思い出していた。
――世界は広い。
だが海雲は、
その広さを“ひとつ”の中から見ている。
海雲はふいに言った。
「おぬし、
覚えるのは得意か?」
「え?」
突然の質問だった。
善財は少し考える。
「人並みには……」
海雲は笑った。
「ワシは苦手じゃった」
善財は思わず海雲を見た。
「えっ?」
「すぐ忘れる」
海雲は真顔で言う。
「昨日食べた魚も忘れる」
「それはちょっと問題では……」
「うむ。
困った」
海雲は頷いた。
だが次の瞬間、
海雲の目が少し変わった。
「だから、
覚え方を変えた」
風が吹く。
潮騒が響く。
海雲は、
ゆっくりと砂浜へ線を描いた。
一本。
また一本。
波のような線。
「昔のワシは、
物事を“別々”に覚えようとしておった」
さらに線を増やす。
「だが、
世界は全部つながっとる」
線と線が繋がる。
網のようになる。
「ひとつ覚えれば、
別のものも浮かぶ」
さらに増える。
「波を見れば風が分かる。
風を見れば空が分かる。
空を見れば潮が分かる」
善財は、
その線を見つめていた。
海雲は静かに言う。
「つまりな」
海を指差す。
「世界そのものが、
巨大な記憶なんじゃ」
善財は目を見開いた。
海雲は頷く。
「だから、
無理に全部を抱え込まなくてよい」
波が来る。
線を消す。
「つながりを観よ」
海雲は静かに言った。
「すると、
必要なものは向こうから浮かび上がってくる」
善財は、
その言葉を反芻した。
――向こうから浮かび上がる。
それは徳雲の、
――見えている。
とも似ていた。
だが、
少し違う。
徳雲は、
無数の世界を“受信”していた。
海雲は違う。
膨大すぎる世界を、
“整理している”。
いや。
整理というより――
“調和させている”。
善財は恐る恐る尋ねた。
「海雲さまは……
どれくらいのことを覚えているんですか?」
海雲は少し考え込んだ。
「うーむ」
そして、
平然と言った。
「たぶん、
普通の人間が一生で聞く言葉の、
百万倍くらいかの」
善財は固まった。
「ひゃ、百万……!?」
「もっとかもしれん」
「そんなの、
頭がおかしくなりませんか!?」
海雲は笑った。
「なるぞ」
「なるんですか!?」
「だから海を見る」
善財はますます分からなくなった。
海雲は静かに海を見つめる。
「海は広い」
波。
「全部を受け止める」
波。
「だが、
決して壊れん」
海雲は、
ゆっくりと善財へ視線を向けた。
「菩薩も、
そうならねばならんのじゃ」

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