【善財くんがゆく!】第九話 善財くん、空を歩く僧に出会う:第三の善知識・善住比丘 (2)

「落ち着け落ち着け」

善住比丘は呑気に言う。

「最初は皆そうなる」

「皆って誰ですか!?」

善財は半泣きだった。

だが。

数瞬後。

ふと気づく。

(……あれ?)

落ちない。

風は吹いている。

身体も浮いている。

だが、
不思議と恐怖が薄れていく。

まるで、
見えない何かに支えられているようだった。

善財は恐る恐る、
足を動かした。

空中で、
一歩踏み出す。

踏めた。

確かに、
“踏んだ”感覚があった。

善財は目を見開く。

「歩ける……?」

善住比丘は満足そうに頷いた。

「うむ」

そして静かに、
空を見上げる。

「空というのはな、
本来どこへでも行けるものなのじゃ」

その瞬間だった。

善財の周囲で、
風の音が変わった。

いや。

違う。

風ではない。

音楽だった。

どこからともなく、
笛の音が聞こえる。

鈴の音。

弦の音。

遠く、
空そのものが歌っているような響き。

善財は息を呑んだ。

青空の遥か上。

流れる雲の向こう。

無数の光が、
ゆっくりと動いていた。

まるで、
星々そのものが舞っているようだった。

善財は思わず、
周囲を見回した。

音は、
どこから聞こえているのか分からない。

近いようで、
遠い。

空全体が、
巨大な楽器になってしまったようだった。

「これは……」

善財は呆然と呟く。

「何なんですか?」

善住比丘は、
風の中で静かに笑った。

「天の伎楽じゃ」

「ぎがく?」

「天人たちの音楽よ」

善財はもう一度、
空を見上げる。

すると。

雲の隙間で、
何かが動いた。

人影だった。

いや、
人のようにも見えるし、
光のようにも見える。

無数の何かが、
空の遥か彼方を舞っている。

笛を吹き。

鈴を鳴らし。

空そのものと調和するように、
ゆっくりと巡っている。

善財は息を呑んだ。

(空の上に……
世界がある……)

地上だけではない。

海だけでもない。

世界は、
もっと立体的だったのだ。

善住比丘は、
そんな善財を横目で見ながら言った。

「おぬし、
“空は上にあるもの”だと思っておるじゃろ」

「え?」

「だから落ちるのじゃ」

善財は眉をひそめた。

「いや、
普通そうでしょう」

善住比丘は笑う。

「そうかのう」

そして。

すっと、
一歩踏み出した。

空中へ。

当然、
落ちる――

はずだった。

だが善住比丘は、
何事もない顔で歩いていく。

青空の中を。

雲の間を。

まるで散歩でもするかのように。

善財は慌てて後を追った。

「ちょっ、
待ってください!」

足を踏み出す。

すると。

空気の感触が変わった。

いや。

空間そのものが、
少し柔らかくなったような感覚。

善財は目を見開く。

(何だこれ……)

右へ行こうとすると、
身体が自然に流れる。

上を意識すると、
ふわりと浮く。

下を見れば、
山々が遥か遠くに見えた。

善財は青ざめる。

「うわっ、
高っ!?」

「下を見るから怖いのじゃ」

善住比丘は笑う。

「見るべきは、
もっと遠くじゃよ」

そう言って、
空の彼方を指差した。

善財は顔を上げる。

その瞬間。

視界が、
変わった。

空が広がる。

いや、
広がったのではない。

最初から、
そうだったのだ。

雲の流れ。

風の道。

鳥の旋回。

遠くの山。

さらにその向こうの河。

そして、
遥か遠方の町々。

全部が、
ひとつの大きな流れとして、
同時に動いていた。

善財は立ち尽くす。

(全部……
繋がってる……?)

その感覚は、
海雲比丘の時と少し似ていた。

だが違う。

海雲は、
“網”だった。

だが善住は――

もっと自由だ。

境界そのものが、
消えていく。

空と地上。

近くと遠く。

上と下。

自分と世界。

その区別が、
少しずつ曖昧になっていく。

善財は思わず呟いた。

「これが……
善住比丘の力……」

善住比丘は頷く。

「うむ」

風が吹く。

天の音楽が鳴る。

そして善住比丘は、
静かに言った。

「この境地を――
“全天周視界”と呼んでおる」

善財は、
まだ空の上に立っていた。

いや。

“立っている”という感覚すら、
少し怪しくなってきていた。

身体は浮いている。

風は吹いている。

だが、
落ちる気がしない。

それどころか。

地面の上を歩くより、
自然ですらあった。

善財は困惑する。

(何なんだ……
これ……)

善住比丘は、
そんな善財の様子を面白そうに眺めていた。

「少しは見えてきたかの?」

善財は空を見回す。

雲が流れている。

いや。

雲だけではない。

風も。

光も。

鳥も。

遥か下を歩く人々も。

全部が、
どこかひとつの流れの中にあった。

善財は眉をひそめる。

「……変な感じです」

「ほう」

「どこまでが自分で、
どこからが外なのか……
分からなくなるっていうか……」

善住比丘は満足そうに頷いた。

「うむうむ」

「でも、
怖い感じはしないんです」

善財は不思議そうに手を開く。

風が指の間を抜けていく。

「むしろ……
妙に気持ちいいというか……」

「そうじゃろう」

善住比丘は笑った。

「本来、
世界に“境界”など無いからの」

善財は目を瞬かせる。

「境界?」

「うむ」

善住比丘は、
ゆっくり空へ手を広げた。

「空を見よ」

善財は顔を上げる。

青空。

白雲。

どこまでも広がる光。

そこには、
線など引かれていない。

「空に、
国境は無かろう?」

善財は頷く。

「まあ……」

「海にも無い」

「はい」

「では、
なぜ人は、
自分と世界を分けたがるのか」

善財は黙り込んだ。

風の音だけが響く。

善住比丘は続けた。

「人は、
境界を作る」

「……」

「ここから先は自分。
ここから先は他人」

「……」

「ここまでは味方。
ここから先は敵」

善財は、
少しだけ胸が痛んだ。

思い当たることが、
いくつもあったからだ。

善住比丘は、
静かに善財を見る。

「だがの」

その瞬間。

風が変わった。

空気が震える。

次の瞬間――

善財の視界が、
一気に広がった。

「――!?」

山。

河。

町。

海。

雲。

空。

遥か遠くの鳥。

さらに遠くの船。

無数の人々。

笑う者。

怒る者。

泣く者。

祈る者。

そのすべてが、
一瞬、
同時に見えた。

善財は息を呑む。

情報の洪水。

なのに不思議と、
混乱しない。

全部が、
自然にそこにある。

ひとつの巨大な流れとして。

善住比丘の声が響く。

「本来、
世界は分かれておらぬ」

善財は、
呆然と空を見つめていた。

その時だった。

遥か遠く。

黒雲が、
動いた。


☆     ☆     ☆     ☆

★この物語を気に入っていただけた方へ。
好雪文庫の刊行物をWebショップでご覧いただけます。

好雪文庫の刊行物を見る―好雪文庫Webショップ

スポンサーリンク

フォローする