「落ち着け落ち着け」
善住比丘は呑気に言う。
「最初は皆そうなる」
「皆って誰ですか!?」
善財は半泣きだった。
だが。
数瞬後。
ふと気づく。
(……あれ?)
落ちない。
風は吹いている。
身体も浮いている。
だが、
不思議と恐怖が薄れていく。
まるで、
見えない何かに支えられているようだった。
善財は恐る恐る、
足を動かした。
空中で、
一歩踏み出す。
踏めた。
確かに、
“踏んだ”感覚があった。
善財は目を見開く。
「歩ける……?」
善住比丘は満足そうに頷いた。
「うむ」
そして静かに、
空を見上げる。
「空というのはな、
本来どこへでも行けるものなのじゃ」
その瞬間だった。
善財の周囲で、
風の音が変わった。
いや。
違う。
風ではない。
音楽だった。
どこからともなく、
笛の音が聞こえる。
鈴の音。
弦の音。
遠く、
空そのものが歌っているような響き。
善財は息を呑んだ。
青空の遥か上。
流れる雲の向こう。
無数の光が、
ゆっくりと動いていた。
まるで、
星々そのものが舞っているようだった。
善財は思わず、
周囲を見回した。
音は、
どこから聞こえているのか分からない。
近いようで、
遠い。
空全体が、
巨大な楽器になってしまったようだった。
「これは……」
善財は呆然と呟く。
「何なんですか?」
善住比丘は、
風の中で静かに笑った。
「天の伎楽じゃ」
「ぎがく?」
「天人たちの音楽よ」
善財はもう一度、
空を見上げる。
すると。
雲の隙間で、
何かが動いた。

人影だった。
いや、
人のようにも見えるし、
光のようにも見える。
無数の何かが、
空の遥か彼方を舞っている。
笛を吹き。
鈴を鳴らし。
空そのものと調和するように、
ゆっくりと巡っている。
善財は息を呑んだ。
(空の上に……
世界がある……)
地上だけではない。
海だけでもない。
世界は、
もっと立体的だったのだ。
善住比丘は、
そんな善財を横目で見ながら言った。
「おぬし、
“空は上にあるもの”だと思っておるじゃろ」
「え?」
「だから落ちるのじゃ」
善財は眉をひそめた。
「いや、
普通そうでしょう」
善住比丘は笑う。
「そうかのう」
そして。
すっと、
一歩踏み出した。
空中へ。
当然、
落ちる――
はずだった。
だが善住比丘は、
何事もない顔で歩いていく。
青空の中を。
雲の間を。
まるで散歩でもするかのように。
善財は慌てて後を追った。
「ちょっ、
待ってください!」
足を踏み出す。
すると。
空気の感触が変わった。
いや。
空間そのものが、
少し柔らかくなったような感覚。
善財は目を見開く。
(何だこれ……)
右へ行こうとすると、
身体が自然に流れる。
上を意識すると、
ふわりと浮く。
下を見れば、
山々が遥か遠くに見えた。
善財は青ざめる。
「うわっ、
高っ!?」
「下を見るから怖いのじゃ」
善住比丘は笑う。
「見るべきは、
もっと遠くじゃよ」
そう言って、
空の彼方を指差した。
善財は顔を上げる。
その瞬間。
視界が、
変わった。
空が広がる。
いや、
広がったのではない。
最初から、
そうだったのだ。
雲の流れ。
風の道。
鳥の旋回。
遠くの山。
さらにその向こうの河。
そして、
遥か遠方の町々。
全部が、
ひとつの大きな流れとして、
同時に動いていた。
善財は立ち尽くす。
(全部……
繋がってる……?)
その感覚は、
海雲比丘の時と少し似ていた。
だが違う。
海雲は、
“網”だった。
だが善住は――
もっと自由だ。
境界そのものが、
消えていく。
空と地上。
近くと遠く。
上と下。
自分と世界。
その区別が、
少しずつ曖昧になっていく。
善財は思わず呟いた。
「これが……
善住比丘の力……」
善住比丘は頷く。
「うむ」
風が吹く。
天の音楽が鳴る。
そして善住比丘は、
静かに言った。
「この境地を――
“全天周視界”と呼んでおる」
善財は、
まだ空の上に立っていた。
いや。
“立っている”という感覚すら、
少し怪しくなってきていた。
身体は浮いている。
風は吹いている。
だが、
落ちる気がしない。
それどころか。
地面の上を歩くより、
自然ですらあった。
善財は困惑する。
(何なんだ……
これ……)
善住比丘は、
そんな善財の様子を面白そうに眺めていた。
「少しは見えてきたかの?」
善財は空を見回す。
雲が流れている。
いや。
雲だけではない。
風も。
光も。
鳥も。
遥か下を歩く人々も。
全部が、
どこかひとつの流れの中にあった。
善財は眉をひそめる。
「……変な感じです」
「ほう」
「どこまでが自分で、
どこからが外なのか……
分からなくなるっていうか……」
善住比丘は満足そうに頷いた。
「うむうむ」
「でも、
怖い感じはしないんです」
善財は不思議そうに手を開く。
風が指の間を抜けていく。
「むしろ……
妙に気持ちいいというか……」
「そうじゃろう」
善住比丘は笑った。
「本来、
世界に“境界”など無いからの」
善財は目を瞬かせる。
「境界?」
「うむ」
善住比丘は、
ゆっくり空へ手を広げた。
「空を見よ」
善財は顔を上げる。
青空。
白雲。
どこまでも広がる光。
そこには、
線など引かれていない。
「空に、
国境は無かろう?」
善財は頷く。
「まあ……」
「海にも無い」
「はい」
「では、
なぜ人は、
自分と世界を分けたがるのか」
善財は黙り込んだ。
風の音だけが響く。
善住比丘は続けた。
「人は、
境界を作る」
「……」
「ここから先は自分。
ここから先は他人」
「……」
「ここまでは味方。
ここから先は敵」
善財は、
少しだけ胸が痛んだ。
思い当たることが、
いくつもあったからだ。
善住比丘は、
静かに善財を見る。
「だがの」
その瞬間。
風が変わった。
空気が震える。
次の瞬間――
善財の視界が、
一気に広がった。
「――!?」
山。
河。
町。
海。
雲。
空。
遥か遠くの鳥。
さらに遠くの船。
無数の人々。
笑う者。
怒る者。
泣く者。
祈る者。
そのすべてが、
一瞬、
同時に見えた。
善財は息を呑む。
情報の洪水。
なのに不思議と、
混乱しない。
全部が、
自然にそこにある。
ひとつの巨大な流れとして。
善住比丘の声が響く。
「本来、
世界は分かれておらぬ」
善財は、
呆然と空を見つめていた。
その時だった。
遥か遠く。
黒雲が、
動いた。

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