電車 居眠り 夢うつつ 第33回「情報化社会」

朝の通勤電車の中で、「情報化社会」という言葉が頭に浮かんだ。
学校はまだ夏休み中なので、制服姿の高校生はいない。そんな空いた電車の中で、スマホに目を落とす人たちは、ざっと数えて乗客の3分の1、いや、半分弱か。こういうのを「情報化社会」というのかな、と考える。

現代は情報化社会といわれる。情報過多と言われることもある。確かに、電車に乗っているさして長くもない時間の間でも、多くの人はスマホを手に取り、「情報」を取り込む。だが、「情報化」って、なんなのだろう? 現代人は、昔の人たちよりたくさんの「情報」を持っているのだろうか?

ヒトは視覚の動物だと、誰かが言った。つまり、多くの情報を視覚を通して取り込む。スマホを見つめる人たちも、目を通して、スマホの差し出す情報を取り入れているわけである。
しかし考えて見ると、目を開いている限り、網膜は光刺激を受け取り、信号を脳へと送り続ける。それはスマホの画面を見ていようと、窓の外の住宅街や畑や林を見ていようと変わりはない。ならば、スマホその他の情報端末を見ていても、窓の外の景色を見ていても、脳が受け取る視覚情報の量に、そう変わりはなさそうである。では「情報化社会」で増えた「情報」とは何なのだろう?
電車の窓から見えるものと、スマホの窓から見えるものの違いはなんだろう?

言葉、だろうか。もちろん、窓の外を見ていれば、看板の文字を見ることはあるし、車内の吊り広告には、もう少し長い文章もあるが、言葉の量としては、スマホの画面には遠く及ばない。我々がスマホやパソコンから得る「情報」の多くは、言語で表現されている。「ヤフーニュース」にしても、「ぐるなび」にしても。
情報化社会を特徴付ける「情報」とは、言語化された情報のことではないだろうか。これはかなり説得力があるが、しかし、単に言語化された情報が多いというだけなら、本を読んでも同じことである。「世界の歴史」全30巻を読めば、相当の情報量だが、それではあまり「情報化」された気がしない。
「情報化」社会というのは、単に言語化された情報が多い(巨大な図書館のように)のではなく、たやすく情報の検索ができる社会、あるいは、誰かが適当に検索して選び出した情報を与えてくれる社会ということではないだろうか。

情報の検索が簡単にできるというのは、確かに現代の特徴だろう。
例えば家で、妻と一緒にテレビドラマを見ている時。「この俳優の奥さんって、誰だっけ?」とどちらかが聞けば、もう片方がMacBookを開き、ウィキペディアで調べる。「最初に結婚したのが〇〇で、最近再婚したのが〇〇」 すぐに答えが出てくる。これが1980年代の夫婦であれば、「この俳優の奥さんて、誰だっけ?」「誰だっけねえ?」で会話は終わったはずである。
疑問を解決したい、答えを知りたい、というのは、人間の基本的欲求の一つだろう。その欲求が、いとも簡単に満たせるようになったのが、情報化社会ということではないだろうか。素晴らしいことだが、本当に素晴らしいばかりなのだろうか。

食べることを考えてみる。動物が生きるためには、物を食べてエネルギーを得なければならない。そのために食欲がある。何億年という動物の歴史の中で、いつでも腹いっぱい食べられるなどということは、ほとんど起こらなかった。動物はいつも飢えと戦ってきたから、動物の体には、飢餓に備えてエネルギーを蓄え、低栄養状態に備える仕組みが作られた。ところがごく最近になって、一部のヒト集団(先進国に住む我々)では、栄養豊富で食べやすい食物の過剰摂取によって健康が脅かされる事態が起こってきた。多くの人が、栄養を摂り過ぎない食事、エネルギーを消費するための運動を求めて努力している。
情報の摂取については、同じようなことは起こらないのだろうか。情報化社会においては、机の前でも電車の中にいても、大量の情報が、わかりやすい形で簡単に手に入る。(「ダイジェスト」(消化)という言葉は、すごく面白いアナロジーだと思う。)こんなに簡単に大量の食べやすい情報を摂取して、我々の心は「糖尿病」や「高血圧」にならないのだろうか。
ちょっと心配になり、糖質制限ならぬ「情報制限」をしてみようかとも思うのだが、テレビを見ながら「石坂浩二と結婚したのは、加賀まりこだっけ、浅丘ルリ子だっけ?」という疑問が浮かんで、パソコンに手を伸ばさないでいるのは、なかなか難しいものである。

(by みやち)

☆     ☆     ☆     ☆

ホテル暴風雨にはたくさんの連載があります。小説・エッセイ・詩・絵本論など。ぜひ一度ご覧ください。<連載のご案内> <公式 Twitter


スポンサーリンク

フォローする