【 魔のウィルス 】26

【 5 】

畑の向こうに現れた少年。黒い車を待たせて、白い大きな捕虫網をそよがせた子。そしてその子が幼稚園がけしていた謎の三角ケース。たった15分ほどの目撃で、7歳の私の生活はかなり変化したらしい。その痕跡がある。

その日までの日記では「その日に捕まえた蝶の数」が記されている。開張10mmほどの小さな蝶の絵と数字が日付の脇に書き込まれている。仮にその小さな蝶の絵を「∞」としよう。「8月21日・∞7」「8月22日・∞11」という具合に記録されている。
ところがその日を境に「∞と数字」の記録がまったくない。毎日のように蝶を捕まえに出ていた楽しみをやめてしまったのだろうか。日記からそれを読み取ることはできなかった。次に「∞と数字」の記録が再び出てくるのは、なんと翌年の7月だった。

夏休みが終り、学校が始まった。私はノートに描いた少年をクラスメイトたちに見せた。その腰のあたりに描いた三角ケースを指さした。しかし友人たちはみな首をふった。小学校2年生ではまあそうだろう。

5人ほどの少年たちに絵を見せてわからないと悟った時点で、私の探求意欲は急速に後退していった。一気に「もうどうでもいいや」気分となり、クラスメイトたちにこの疑問を持ちこんだこと自体に後悔し始めた。ひとりであれこれ調べるのは大好きだったが、周囲の人間を巻きこんであれこれするのは嫌いだった。
「こういう形の虫カゴがあるのかもしれない」と私は言い出した。「きっとそうだ」という心にもない態度をとって「この話はもう終わり」という雰囲気を作ろうとした。

しかしこういう時に限って、親切でおせっかいなクラスメイトが出てくるものである。ひとりの少女がスタスタとこちらにやってきた。彼女は男子生徒たちが5人ほど私の小さな絵を囲んでああだこうだ言ってる様子を少し離れたところから黙って見ていたが、いきなりその輪を崩すような勢いで机に近づき、その絵を手に取った。
「これ、見たことある!」
彼女は誰よりも大きな声で言い、周囲の少年たちはみな沈黙した。

「まずい事態になった」という最悪気分だった。
その女生徒……彼女を仮にMさんとしよう……Mさんとだけは、どのようなことでもかかわりたくなかった。……というのも彼女は「オール5」にちがいないクラスでトップの子で、いいトコのお嬢で、家には家庭教師が入れ替わり立ち替わり数人来ているという噂で、だれも彼女に勝とうなどとは絶対に思わない……といった最強君臨存在だった。しかしそれだけが私が避ける理由ではなかった。彼女がクラス中で唯一、ライバル視しているのが私だった。

もちろん私が彼女の敵であろうはずがない。私など彼女の最強ムードに比べたら、吹けば飛ぶような存在だった。……とはいえ唯一、絵だけはいささかの自信があった。しかしそれもまた「いささかの自信」程度である。私は「これだけは誰にも負けない」などと競争意識を燃やすような子ではなかった。むしろ真逆で、もともと競争意識の極めて低い少年だった。廊下に貼り出されたMさんの絵を見た時も「上手だなぁ」と率直に思ったことは何度もある。彼女が「金リボン」で私が「銀リボン」だったとしても、「すごいなぁ」と即座に認めるような少年だった。
しかしそれでもなおかつ、彼女は私の作品を、私の言動を、意識した。「なんでそれほど目のカタキにされるのか、さっぱりわからない」というのが、その当時の私の気分だった。

「これ、見たいの?」
彼女の挑むような目に私は視線をそらした。
「なにかわかれば……それでいいかと」
彼女はポンとそのノートを机に戻し、無言で自分の席に戻った。

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【 6 】

その後数日間、いや数週間かもしれない。クラスの中でこの話題が出ることはもうなかった。この出来事から順を追って7歳当時の日記も詳細に調べてみたのだが、残念なことにその後、この件に関する記録はなにもなかった。……なのでかなりおぼろげな記憶として残っているシーンの断片をつなぎあわせるような記述になってしまうのだが、この出来事からかなり日数がたち、私も三角ケースのことはほとんど忘れかけていたある朝、Mさんは私の机に来た。彼女が手提げから出してポンと私の机に置いたのは、まぎれもなくあの三角ケースだった。

言葉を失う、とでも言おうか、その時の私はただ茫然とその物体を見つめた。
「見ないの?」
彼女の言葉にようやく現実に戻ったような気分だった。私はそれを手にした。ヒヤリと手に冷たい金属の感覚、意外にズシリと重いものだった。震える指先でフタを開けた。すると意外なことに、そこにはきれいに並んだ三角形の紙がぎっしりと入っていた。30枚ほど入っていただろうか。そのうちの1枚が他の紙と違って「ふくらみ」のあることに気がついた。私はその三角紙を引き出した。まるで折り紙のようにきれいに羽をたたんだモンキチョウがその中に入っていた。

……………………………………    【 つづく 】

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