【 魔談480 】再 起

【 子ども時代を語る効果 】

ホテル暴風雨の客室を1室いただき、毎週金曜日の連載エッセイ「魔談」を開始していなかったら、たぶん私は延暦寺体験を語ることはなく、8歳の自分の日記やクロッキーブック(雑記帳)を詳細に調べるなんてことはまずしなかっただろう。雑事にまみれる日常生活では、そんなことをする理由などまずない。

思えば魔談で私はじつに様々な「過去」を語ってきた。そうした中でも少年時代を語ることが「楽しい」というよりもむしろ「癒される」という効果があることに、いつのまにか気がついていた。「……そうか。少年時代を書くことで癒されることもあるのか」という発見は、私にとって目が覚めるような発見だった。以来、私は友人知人に対しても、講師として教壇に立っているときも、「文章を書きなさい。エッセイを書きなさい。子ども時代を語りなさい」と様々な人にすすめるようになった。「呼吸するようにエッセイを書く」ということが今の私にとってひとつの理想となっている。いましばらくは、その理想を追求してみたい。

少年時代を語るのはどうして癒されるのだろう。あるいはまた、いまこの文章を読んでいるあなたが女性であれば、女性にとってはどうですか?
少女時代を語ることは癒やされますか?
「そんなことをしてなんの役に立つ?」と問われてしまったら返す言葉もないが、人はだれしも「自分はどういう人間で、なにがしたくて、どんなふうに生きていくのが最も自分らしい生き方なのか」という疑問というか永遠の命題というか、そうしたものを抱えて生きているのではないだろうか。「忙しすぎてそんなことを考えているヒマなどない」という人だって、「忙しすぎる生活」こそが最も自分らしい生き方だと思ってはいないはずだ。「今は忙しすぎてアレだけど、そのうちにもう少し余裕ができたら、もっと自分らしい生活を」というのが本音ではないだろうか。

未来に希望を託すという気持ちはよくわかるが、私の場合は、60歳を越えてからと言うもの、「いずれそのうち」という希望的観測は捨てるようになった。以前、どこやらの進学教室名物講師が「いつやるの? いまでしょ!」というセリフで(このセリフだけで)有名になったが、心境としてはまさにこの言葉に近い。

【 再 起 】

さて本題。
(すでに大きく脱線&暴走中の話で本題もヘチマもないが)
限界に達したかずくんに背を向けてさっさと部屋を出ていった若い僧は、その後、どこに行ってなにをしていたのか、結局わからなかった。しばらくして彼は戻ってきた。なにごともなかったかのように平然と我々の近くに音もなく座り、例によって2秒ほど沈黙して我々を眺め、そして言った。
「厨房に行って手伝いなさい」

若い僧が廊下を渡って来る直前、私は足を投げ出すようにして座っていた。しかし誰かが来る気配を察知した段階で、あわてて坐禅体勢に戻り、足を組んでいた。その体勢で(いつものように)「はい」と返事した。
ところがそれまでは私以上にすばやく大きな声で「はいっ」と返事していたかずくんの声がなかった。驚いて彼を見ると、座ったままがっくりと上体を倒したままだった。彼は自分の足のくるぶしのあたりを見ていた。上体を起こすこともなく、僧を見もしなかった。
僧は2秒ほど彼をじっと眺めていたが、無言で立ち上がり、さっさと行ってしまった。

私は半ば呆然とした気分で僧の気配が遠ざかっていくのを感じていた。立ち上がり、かずくんの肩に手を置いた。
「どうする?」
彼はコクンとうなずいた。ゆっくりと立ち上がり、手の甲で涙をぬぐい、そして言った。
「行こか」
意外にも明るい声だった。彼の複雑な心境の変化は、もちろん当時の私にはわかるはずもなかった。なにはともあれ、立ち直ったらしい。それだけがわかった。それだけで十分だった。

【 後 日 談 】

この時から15年後の盛夏。我々は東寺近くの居酒屋で飲んでいた。23歳の私は東京の大学に籍を置き、かずくんはすでに出家してツルツルの頭になっていた。
「夏季休学の帰省やいかに? 京で一献(いっこん)傾けたく」
それは手紙で、鳩居堂(京都・寺町にある和紙専門の老舗)の便箋に墨汁で書いてあった。そんな手紙を受け取ったのは初めてだった。時に1979年。スマホどころかまだ携帯さえなかった時代である。

「さすがに坊主ともなると手紙にも風格があるな」と私は笑い、スヌーピーの便箋にパーカーのブルーブラック(万年筆)で返事を書いた。当時の私はスヌーピーの便箋しか持っていなかった。それは7年間続いた文通相手が文通打ち切りの時に最後にプレゼントしてくれたものだった。今でも私はスヌーピーを見ると、彼女の筆跡と「文通打ち切りを告げた最後の手紙」を思い出してじわっとほろ苦い気分になる。

かずくんの再会は15年ぶりだった。彼は紫色のペイズリー柄バンダナを頭に巻き、VANの白いTシャツを着ていた。だれが見たって坊主とは思わないだろう。
「僧服で来るのかと思ったよ」
「アホな。僧服で居酒屋に入れるかいな」
彼は相変わらず太っていたが、雰囲気がずいぶん柔和になったように感じた。とにもかくにも僧侶となったことで、精神的にもずいぶん落ち着いたのだろう。

彼が私に会おうとしたのはもちろん理由があった。少々恥ずかしかったらしくあれこれとまわりくどい前口上(笑)があったが、要するに「女性との付き合い方を教えてほしい」ということらしい。私は即座に篠田先生を連想した。
「オヤジもムスコも女さがしかよ」と思っておかしくなったが、もちろん余計なことは言わなかった。

【 つづく 】


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