【 魔談529 】モンマルトルの画家たち(30)

【 ダーマトグラフ 】

魔談で「画材を語る」なんてことは今までの記憶にないが、今回は滅多にない機会なので、ダーマトグラフについて語りたい。
ダーマトグラフとはなにか。三菱鉛筆が開発した色鉛筆である。ダーマトグラフはじつは一般名称ではなく登録商標なのだ。なので、もしNHKさんが「子どもの工作」とかでこれを使うとしたら絶対に「ダーマトグラフ」とは言わないだろう。ではなんというのか。おそらく「グリースペンシル」とか「紙巻鉛筆」というに違いない。

さてこの色鉛筆は、普通の色鉛筆とどう違うのか。じつは前述した名称に含まれている「グリース」と「紙巻」がその特徴を示している。
【 特徴 1 】
・芯の成分にグリース(ワックス)を多く含んでいる。油性が非常に強い色鉛筆なのだ。そのため紙や板はもちろん、ガラス、金属、プラスチック、(リンゴなどの)表皮の硬い果物にも描くことができる。私は近所の御主人に頼まれて、軽トラのドア部分に鮎(あゆ)を描いたことがある。説明するまでもなく御主人の唯一の道楽は川釣りで、特に鮎漁解禁の季節には、彼はほとんど家にいない。さて本番は水性ペンキで描くとして、下描きはどうするか。「そうそう。こんな時こそダーマトだ」と気がつき、実際に使ってみて大いに役に立った。
【 特徴 2 】
・芯を包んでいるのが木ではなく(何重にも巻いた)紙でできている。そのため鉛筆けずりもナイフもいらない。先端部分の紙を(皮のように)めくっていくことで芯を出すことができる。この「紙巻鉛筆」という非常に便利な色鉛筆は、私の知る限り三菱鉛筆以外には見たことがない。

というわけで誠に優れた特徴を持つ色鉛筆なのだ。しかも(国産なので)安い。1ダース(12色)¥1145。1本¥100前後である。私が所有している色鉛筆は日本以外にドイツ・フランス・アメリカ・スイスと数カ国にわたっているが、画材店で1本ずつ買える色鉛筆で最も高いものは1本¥320(アルブレヒト・デューラー水彩色鉛筆/ドイツ)である。

ただしダーマトグラフは12色しかない。24色とか36色とか揃えている通常の色鉛筆に比べるとまさに「最低限の色数」といったイメージだが、それでも私の色鉛筆ストックの中で特異な(重要な)位置を占めていることは確かだ。私は12色を揃えているが、(ある程度の文具も扱っている)画材店に行けば1本ずつ買うことができる。「試しに使ってみたい」という方は黒を買えばいいだろう。

【 ダーマト効果 】

さて本題。
目の前に貞子がいるので、異国ながらいかなる説明もできる。「通訳とはなんと便利なものだな」と思いながら、私はプラスチックの色鉛筆箱からダーマトグラフを取り出した。12色とも色鉛筆箱の中にあるはずだが、とりあえず3本を取り出して貞子、マリアンヌ、ピエールに1本づつ渡し、その特徴を説明した。3人とも驚いたようだった。ピエールがまたなにかゴチャゴチャと早口で言い出し、貞子が笑った。
「これを売ってくれと言ってるわ」
彼が手にしているダーマトを見ると黒だった。この旅行中に黒のダーマトを使う機会があるかどうかわからないが、たぶんないだろう。それに「黒」なら、帰国すれば仕事部屋に数本の予備があるはずだ。貞子とマリアンヌに渡したダーマトの色も再確認した。貞子はピンク、マリアンヌは白だった。一瞬迷ったが、「まあいいだろう。三菱鉛筆に貢献するか」という結論。
「あげますよ」と貞子に伝えた。「3本ともあげます。使ってみてください」

一番喜んだのはマリアンヌだった。彼女は席を立って私の方に来た。こうしたことにはうとい私でも、さすがに「ああ、ハグしたいのだな」とすぐにわかった。私は立ち上がり、我々はハグした。マリアンヌの香水は貞子の香水よりも微妙に濃厚な感じがした。ここの女性たちは香水にどの程度こだわるのか知らないが、若い女性の方がより刺激的な香りを好むのかもしれない。

マリアンヌの願いを貞子が伝えてきた。「白のダーマトを使って自分の作品に手を加えてほしい」というのだ。私は基本的に生徒や他人の作品に手を加えることはしない主義だ。しかしこの時は異国の都にあり、彼からがホストで私がゲストだという意識が心のどこかにある。応じることにした。「OK」を伝えるとマリアンヌが再び席を立った。彼女は(私のすぐ傍に座っていた)ピエールのところに来た。さすがの彼も「席を代わってほしい」というマリアンヌの願いを即座に察知したのだろう。マリアンヌは私の傍に座った。

私は目の前に広げていたマリアンヌのスケッチブックを閉じた。もう一度最初から開き、順番に見ていき、ある作品を指で示した。
「……じゃあ、この作品に少し手を加えてもいいですか?」
通訳を求めて貞子に聞いたのだが、返事を待つまでもなかった。マリアンヌは私のすぐ傍で大きくうなずいた。
私は白のダーマトを手にしてその作品にタッチを追加した。

じつはつい先ほど、この作品を初めて見た時にも気がついていたのだが、制作者がタッチを追加しようとしていた痕跡が、この作品には残っていた。たぶんフィニッシュ段階で白のタッチをあちこちに走らせて、衣装のきらめきを表現したかったのだろう。

それは室内でダンスをしているカップルのデッサンだった。社交ダンスだろうか。しかしダンスしているのは1組だけで、他の客たちは円卓でワインを飲みながらその様子を見ていた。
フィニッシュ段階で「白線のタッチ」を加えたいという制作者の意図は手にとるように想像できた。しかしいかんせん、「色鉛筆の白」は効果を発揮していなかった。すでに塗ったクレヨンが「色鉛筆の白」をはじいてしまっているからだ。「クレヨンの白」だったらきっとうまくいっただろう。彼女がなぜそうしなかったのかはわからない。「色鉛筆の白」で細い線を重ねたかったのかもしれない。これは私にも経験のあることだった。色鉛筆だけで描いたデッサンでも、一度塗ってしまうと、後から重ねて塗ることができないことがある。

私はマリアンヌの視線を十分に意識しながら、彼女が描こうとしてうまくいかなかった「色鉛筆の白」の上にダーマトを重ねた。そのタッチはスラスラと上に重ねることができ、マリアンヌから感嘆のため息が聞こえてきた。

【 つづく 】


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