【善財くんがゆく!】第五話 善財くん、旅立ちを告げる

善財は家へ帰る道を、ゆっくり歩いていた。

頭の中では、まださっきの光景が何度もよみがえっている。

文殊菩薩の前に進み出たときのこと。
あの静かなまなざし。
そして、言葉。

――善知識を訪ねよ。

胸の奥が、まだ少し熱かった。

あれは夢だったのだろうか。
いや、違う。

善財は首を振った。

夢などではない。
あれは確かに、自分に向けられた言葉だった。

気がつくと、家の門の前まで来ていた。

「坊ちゃん」

声をかけたのは、店の番頭だった。

長年この家を支えてきた、父の右腕のような人物である。

「お帰りなさい」

善財はうなずいた。

「ただいま」

番頭は善財の顔を見て、少し目を細めた。

「……何かありましたな」

善財は少し驚いた。

「どうしてわかるのですか」

番頭は肩をすくめる。

「坊ちゃんがそんな顔をしてるときは、ろくなことを考えてない」

善財は思わず笑った。

「そんなに顔に出ていますか」

「ええ」

番頭は少し声を落とした。

「広場でのこと、町でも話題になっております」

善財は目を丸くした。

「えっ」

番頭はうなずいた。

「坊ちゃんが文殊菩薩の前に出ていったところ、見ていた者が大勢おりますからな」

善財は少し照れた。

番頭はふっと笑う。

「まあ……」

そして続けた。

「坊ちゃんは昔から、人に会うのが好きですからな」

善財は首をかしげる。

「そうでしょうか」

「ええ。知らない人でも平気で話しかける」

番頭は懐かしそうに笑った。

「小さい頃から、そうでした」

善財は少し考えた。

確かに、そうかもしれない。

人の話を聞くのは、嫌いではない。
むしろ好きだ。

番頭は善財を見て言った。

「で、今度は何を考えているんです」

善財はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「……旅に出ようと思います」

番頭は一瞬、目を見開いた。

しかしすぐに、ふっと笑った。

「なるほど」

「旦那には?」

「これから話します」

番頭はうなずいた。

「そうですか」

そして善財の肩を軽く叩いた。

「坊ちゃんが決めたことなら、きっと理由があるんでしょう」

善財はうなずいた。

「はい」

番頭は門を指した。

「さあ、行ってきなさい」

善財は深く息を吸うと、家の中へ入っていった。

父は居間で帳簿を見ていた。

母はその隣で、糸を繕っている。

善財は二人の前に座った。

「父上」

父は顔を上げた。

「どうした」

善財は背筋を伸ばした。

「お願いがあります」

父は帳簿を閉じた。

「……言ってみろ」

善財はまっすぐ父を見た。

「私は旅に出たいと思います」

母の手が止まった。

父は眉をひそめる。

「……旅だと?」

「はい」

父は善財を見つめた。

「文殊菩薩に言われたのか」

「はい。善知識――善き師を訪ねて学べ、と」

父は黙り込んだ。

やがて、ゆっくり息をつく。

「……そうか」

母が静かに言う。

「あの方にそう言われたのなら、きっと理由があるのでしょうね」

父はうなずいた。

「文殊菩薩が軽い気持ちでそんなことを言うはずもない」

そして善財を見た。

「あの大勢の人の中で、文殊菩薩の前に進み出たのはお前だけだったな」

善財は少し驚いた。

母が微笑む。

「よく見えましたよ。あなたが人をかき分けて前へ行くところ」

父も小さく笑った。

「町の人間もみんな見ていたぞ」

善財は少し照れた。

父は表情を引き締める。

「だがな」

善財は顔を上げた。

「旅というものは甘くない」

「はい」

父はゆっくり続けた。

「見知らぬ土地を歩き、見知らぬ人と会う。
危ない目に遭うこともある」

善財はうなずく。

「それでも行くのか」

「はい」

迷いはなかった。

父はしばらく黙っていた。

やがて小さく息をつく。

「……まあ」

少し肩をすくめた。

「うちは商いの家だ。旅人の苦労くらいはわかっている」

母が父を見る。

父は続けた。

「支度はしてやろう」

善財の目が大きく開く。

「本当ですか」

父はうなずいた。

「ただし約束がある」

「はい」

「必ず学びを持ち帰れ。
ただの物見遊山で終わるような旅は許さん」

善財は深くうなずいた。

「はい」

母がやさしく言う。

「身体には気をつけるのですよ」

「はい」

父は立ち上がった。

「さあ、旅の支度だ」

母も立ち上がる。

「食べ物も用意しましょう」

善財は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

父は善財の肩を軽く叩いた。

「文殊菩薩も、お前の願いを認めてくださったのだろう」

善財はうなずく。

父は言った。

「ならば、行ってこい」

善財はもう一度深く頭を下げた。

窓の外には夕暮れの空が広がっていた。

明日になれば――
善財はこの家を旅立つ。

まだ見ぬ世界へ向かって。

善財は静かに拳を握り、旅立つ決意を新たにした。

南へ。

まだ見ぬ多くの人々に会うために。


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