【 魔談550 】モンマルトルの画家たち(51)

【 ビーナス・ポーズ 】

ヌードデッサンについては「魔談527/モンマルトルの画家たち(28)」で詳しく書いている。それを読んでいただければ、通常の(日本における)ヌードデッサン教室とはどのような制作光景なのか、大体のところはつかんでいただけただろうと思う。

ところがこの時に私が参加した「モンマルトル・ヌードデッサン会」はそれまで私が経験してきた(日本の)通常のヌードデッサン教室とは全く異なる雰囲気の教室だった。それは単に「ところ変われば」で「日本とは違うなぁ」といった感慨程度のものではなく、私にちょっとした衝撃を与えた。さらにその衝撃はヌードデッサンの話にとどまらず「絵画教室とはいかにあるべきか」といった疑問にまで波及していったように思う。
そこで今回はそのあたり、私がこのモンマルトル・ヌードデッサン会で見た光景、そこで受けた衝撃を詳しく描写しながら、その後の認識の変化も述べてみたい。

✻ ✻ ✻

さて本題。
ローズ登場の話である。彼女は歓声に近い声や口笛に応じるかのように右手を軽く上げながら登場した。ハイヒールを脱いで毛布の上に立った。身にまとっていた純白のネグリジェは上品な光沢を放っていた。シルクかもしれない。両肩のヒモをずらすとネグリジェはスルリと下に落ちた。全裸の彼女はネグリジェを拾い上げて、脇の椅子にふわりと乗せた。

またしても「ヒュッ」と短い口笛。私は微妙にイラッとしてその画家を見た。その画家は大衆居酒屋の店長といったイメージの中年男で、ドビュッシーのようなあご髭はなかなか立派で、腹の出具合もじつに立派だった。彼は私の視線に気がつくと軽くウィンクし、傍に置いた赤ワインのボトルを手にして(ラッパ飲みで)ゴクッと一口やった。呆れてしまったが、よく見ると男性画家たちはほとんどみなイーゼルの脇に赤ワインのボトルを置いていた。

ローズは自分でポーズを決めた。最初は立ちポーズだった。右手は軽く胸に置き、左手は下腹部に置いていた。彼女は貞子を見て軽くうなずいた。貞子は右手を上げて「ピッ」と音を立てた。ストップウォッチで「開始」を示したのだろう。

私は「はて、どこかで見たようなポーズだが……」と思いつつローズを見ながらピンクの色鉛筆を走らせた。ピンクでざっくりと輪郭を追い、その後はボルドー(深い赤)で輪郭の細部を確定するつもりだった。
また第1ポーズでいきなり(難易度の高い)全身描写は避けた方がいいだろうと思ったので、いわゆる「胸上」(むねうえ/胸から上だけを描く)にしようと予定していた。下腹部に置いた左手もデッサンしたいと一瞬思ったのだが、次の瞬間の判断でそれは断念した。

ここでの「ヌードデッサン流儀」というか制作予定を貞子に聞く余裕もなくいきなりデッサンに入ってしまったのだが、制作時間はおそらく20分程度だろう。「20分制作/10分休憩/20分制作……」という流れだろうと予想した。
(実際は25分制作/5分休憩/25分制作……という流れだった。ローズは5分しか休憩しなかった。これにもちょっと驚いた)

制作中にハッと気がついた、というかある名作絵画を思い出した。ローズが自分で決めた立ちポーズは「ヴィーナスの誕生」(ボッティチェルリ)だった。
「立ちポーズ」というのはいかにプロのモデルとはいえ、想像以上に疲労が激しいと聞いたことがある。それは「ただ立っている」だけではないのだ。動かないでじっとしていなければならない。大抵のモデルはその苦しさを経験しているので「自分にとって最も楽な立ちポーズ」を研究していると言われている。両手を前で組むとか、右足を半歩ほど前に出すとか、そうしたささやかな違いでもモデルにとっては重要なことなのだ。

「……で、このポーズはどうなんだろう?」と思いつつ私は色鉛筆を走らせた。どう考えても楽なポーズとは思えなかった。しかしセクシーではあった。

【 つづく 】


電子書籍『魔談特選2』を刊行しました。著者自身のチョイスによる5エピソードに加筆修正した完全版。専用端末の他、パソコンやスマホでもお読みいただけます。既刊『魔談特選1』とともに世界13か国のamazonで独占発売中!
魔談特選1 北野玲著

Amazonで見る

魔談特選2 北野玲著

Amazonで見る

スポンサーリンク

フォローする