潮の匂いがした。
善財は足を止める。
今まで嗅いだことのない匂いだった。
風は湿っていて、
どこか鉄のような、
鉱物のような匂いが混じっている。
そのとき――
ゴオオオオ……
低く、絶え間ない音が聞こえた。
善財は顔を上げた。
次の瞬間、
視界が開けた。
「……うわ」
思わず声が漏れる。
そこには、
果てのない水の世界が広がっていた。
空と海の境目が、
よく分からない。
青とも灰色ともつかない巨大な水面が、
どこまでも続いている。
波。
また波。
さらに波。
白い飛沫を上げながら、
巨大な水のうねりが何度も岸へ押し寄せていた。
善財はしばらく、
その場から動けなかった。
(これが……海)
川とはまるで違う。
母なるクリシュナ河も、
善財にとっては巨大だった。
だが、
これは別物だ。
向こう岸が見えない。
終わりが見えない。
まるで、
世界そのものが脈打っているようだった。
轟音が腹へ響く。
潮風が髪を乱す。
足元の砂が、
さらさらと崩れていく。
善財は息を呑んだ。
(世界って……
こんなに広かったのか……)
そのときだった。
「海は飽きんじゃろう」
すぐ横から、
声がした。
善財は飛び上がるほど驚いた。
いつの間にいたのか。
波打ち際の岩に、
ひとりの僧が座っていた。
歳はよく分からない。
日に焼けた肌。
粗末な僧衣。
髪は短いが、
潮風のせいか乱れている。
だが何より奇妙だったのは――
その僧が、
まったく海から目を離さないことだった。
善財の方を見ない。
瞬きすら、
ほとんどしない。
ただ、
波を見ている。
寄せては返す波を。
永遠に繰り返される水の動きを。
善財は恐る恐る口を開いた。
「あの……」
返事はない。
僧は海を見ている。
善財は少し近づいた。
「あの、
海雲比丘という方を探しているのですが……」
僧は、
しばらく黙っていた。
波の音だけが響く。
やがて、
ぽつりと言った。
「探さんでも、
ここにおる」
善財は目を瞬かせる。
「え?」
「ワシが海雲じゃ」
善財は思わず姿勢を正した。
(この人が……!)

だが海雲は、
こちらを見ない。
ただ海を見ている。
善財は戸惑った。
(徳雲さまも変わった人だったけど……
この人はまた別方向だな……)
海雲は静かに言った。
「おぬし、
海を見るのは初めてじゃな」
「えっ」
「分かる」
海雲は小さく笑った。
「最初は皆、
同じ顔をする」
善財は改めて海を見る。
巨大な波が、
轟音とともに砕け散った。
海雲はその波を見つめながら言った。
「不思議じゃろう」
「はい……」
「ずっと見ておっても、
終わらん」
海雲の声は静かだった。
波に呑まれそうなほど静かだった。
「ワシはな」
海雲は言う。
「十二年、
これを見ておった」
善財は固まった。
「……じゅ、十二年?」
「うむ」
海雲は頷く。
「朝も昼も夜も」
さらりと言う。
善財は思わず海雲の横顔を見た。
冗談を言っている顔ではない。
本気だ。
本当に、
この人は十二年間、
海を見続けていたのだ。
善財は困惑した。
(な、何なんだこの人……)
徳雲は、
世界中を同時に見ていた。
だがこの男は逆だ。
どこにも行かない。
ただ、
ひとつの海を見続けている。
海雲は静かに呟いた。
「見ておるとな」
波が砕ける。
「だんだん、
分からなくなってくる」
善財は黙って聞いている。
「どこまでが波で、
どこまでが海なのか」
また波が来る。
「どこまでが自分で、
どこまでが世界なのか」
風が吹いた。
潮の匂いが、
二人の間を通り抜ける。
海雲は、
初めて少しだけ善財の方を見た。
その目は、
恐ろしいほど静かだった。
「そしてある日――」
海雲は再び海を見る。
「向こうから、
見え始めるのじゃ」

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