別訳【夢中問答集】第十三問 本当の「慈悲」とは?

足利直義:いや、私が読んだ禅の本には、「まず自らをよく研究して熟知した上で修練を積み重ね、完成に完成を重ねた上でなお余裕がある、というのでなければ他人のことになどかまうんじゃない!」と書いてあったのですが・・・

そもそも自分が未完成であるクセに他人の世話を焼く、などというので「菩薩行」が成り立つんですかね?

夢窓国師:「うーむ、なんと説明したらよいかな・・・

ひとくちに「慈悲」と言っても、実は「衆生縁」、「法縁」、「無縁」の三種があってな、実際に苦しんでいる人を見て哀れみの心を起こして助けてあげるというのは最初の「衆生縁」じゃ。

これは「自分だけが幸せに」などというのに比べたらまだマシな方なのじゃが、可哀想な人が「存在する」、助けてあげるという行為が「存在する」という執着が残っているので「究極の慈悲」とは呼べない。

維摩のオッサンが「愛見の大悲(=「あらまぁ、可哀想な人がいるわ。何か恵んであげなくちゃ」という気持ち)が心の中に生まれたら、全力で振り払え!」と言ったのは、まさにこれのことじゃ。

逆に、「ああ、可哀想な人がいるように見えるが、実際は「可哀想」に思えたとしてもそれは見せかけだけのことだし、「人」などというものも実在しないし、「見る」という行為すら幻なんだよなぁ・・・」ということに気づき、それを通じて皆の悩みや苦しみを超克させることを「法縁」と呼ぶ。

これはなんだか良さそうに思われがちじゃが、実はまだ究極のところではない。なぜならば「マボロシが存在する」という気持ちを捨て切れていないからじゃ。

それならいったいどうしたらよいのかと思うじゃろうが、「無縁」というのが究極のところじゃ。

それは人間が本来持っている潜在能力が全開になった時に現れるものなのじゃが、誰かを「助けよう」などと一切考えないにもかかわらず、周囲の人がどんどん幸せになっていく。

あたかも雨上がりの満月の夜、あちこちの水たまりの全てに月が映るような感じでな。

何かを主張するとかしないとかいうことを離れ、助けるとか助けないとかいうことも離れている。

これこそが本物の「慈悲」なのじゃ。

先の「衆生縁」「法縁」の慈悲を発揮するものは、その「慈悲」というもの自体にとらわれてしまって、かえって本当の「慈悲」が発揮できなくなってしまっている。「小さな親切、大きなお世話」というのはつまり、このことじゃな。

「『一日一善』とかで満足してんじゃねぇよ!」と百丈和尚が叱りつけたのも、同じ理由からじゃ。

<第十三問 本当の「慈悲」とは? 完>


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