もっとテレビ見たい事件

先週のある日、気がつくと子どもの声が少々ハスキーになっていた。まだ少しかすれている程度だが、悪化して静かな夜の酒場に流れるトム・ウェイツのような声になってしまうと困るなあ、などとと思いつつ体に触れると案の定ちょっと熱い。
熱を計ってみると37.6度。
今のご時世、体温37.5度というのが発熱の基準値になっているが、これを微妙に超えている。たった0.1度の違いだが、こうなると病院に行っても発熱外来の隔離個室で診察を受けなくてはならず、心躍るアンパンマンのおもちゃなどがたくさんある待合室には入れないことになる。
結果はただの風邪でしょう、ということでひと安心したものの、少しの咳と微熱があるだけでおおむね元気な子どもにとってこれはかなりのストレスである。
外に遊びに行けない分、家でアニメやブロック遊びを思う存分楽しめる機会ではあるが、こうなると自分もそれに付き合うことになる。そんなわけで育児につきもののこうしたことが起きるたびにこのノートを書く時間がなくなるというパラドックスに陥るわけだが、それを考えても仕方がないのでとにかく起こったことを書くことにする。

事件が起きたのはその前夜である。体調が悪かったせいか機嫌がすこぶる悪く、夜遅くなってテレビを消すと、息子は地団駄を踏んで絶叫しはじめた。

「やだ!!テレビもうちょっとだけ見る!あとちょっとだけいいでしょう?おねがーい」

「今日はもう遅いし、テレビさんもおやすみだよ。一緒に寝よう」

「やだっ!おねがいおねがいおねがい!!あとちょっとだけ!!」

「今日はテレビさんずっと見せてくれたでしょう?『ありがとう、明日もまた見せてください』の方がいいんじゃない?」

日々アップデートしている絶叫対策マニュアルに沿って、最近はもう一段階譲歩してテレビのスリープタイマーを設定し、消えたらお礼を言っておしまいにするという折衷案を取ることが多かったのだが、この日は時間も遅く(これも大人の都合だが)子どもの体調も今ひとつなので譲歩しないことにしたのだった。

「消すのダメ、今がいい、今見る!ヤダヤダ!!ダメーっ!ダメーっ!!」

「そんなに大きい声で泣いたらテレビさんどんな気持ちかな?自分がされたらどんな気持ち?」

「うう。。。い、いやなきもちがする。。。」

「そうだよね、じゃあもう明日にしよう!」

「見る見るイヤイヤダメダメーいやああーー!!」

よだれと涙にまみれつつしばらくこうしたやり取りが続いた後、ピンポーン、とインターホンが鳴った。ああ、また来ちゃったなあ、と心の中でため息が出た。予想通り、玄関を開けるとそこにはおばけでも鬼でもなく、警察官がいた。
暑かったので窓を全開にしていたこともあり、小さなホールならアカペラでもいけるほど声量のある息子の渾身のシャウトが近隣に鳴り響いていたらしい。本当に申し訳ない気持ちもありつつも、こうして誰かが気にしてくれている(というかひたすら迷惑なんだろうけど)ことをありがたくも思う。

まだ30代と思われるおまわりさんから「今日のこれは何泣きですか?」と聞かれたので「テレビがもっと見たい泣きです」と答えたのだが、なんだそりゃ、という話である。
事情聴取(っていうのか?)されている父に抱かれて泣き止んだ息子に、おまわりさんは優しく「泣いてもいいんだよ」と言ってはくれたが、かといって深夜に近い時間に子どもを絶叫させるのは良いことではない。これは完全に養育者である自分の責任である。
あと少しだけの約束をして見せてあげたら納得してくれたのかもしれないし、グミでもクッキーでもぶどうゼリーでもあげたら良かったのかもしれない。そもそも体調を考慮してもう少し早く休ませた方が良かったのかもしれない。
そんなことを考えると同時に、心の中で「子どもを甘やかし過ぎ」「許すとどんどんエスカレートする」「泣けばいうことを聞いてもらえると思う子になってしまう」などという声が聞こえてくる。いろんなことが頭の中に浮かんでは消えたが、その後息子はすっかり機嫌を直し、ベッドに入るとすぐに爆睡していた。

確かに子どもの要求に全て応えるわけにはいかないし、時には毅然とした態度で臨む覚悟も必要だと思う。しかし、この先放っておいても否応なく押し寄せる社会のルールの中で生きていくことになるまだ小さな子どもに気まぐれな自分の都合を押し付けようとしていたことに、なんだかとてもがっかりしてしまった。そもそも、子どもの頃から部屋に閉じこもってレコードばかり聴いていたような自分に、そんなことを言う資格があるのだろうか。
そのうちに必ず聞くことになるであろう「父さんには言われたくない」という言葉がすでに頭の中にこだましている。

制服を着たおまわりさんが自宅に来たことは息子にとってもかなり大きなインパクトだったらしく、翌日道端に止まっているパトカーを見ると「誰かお友達が泣いてたんだよ、きっとそうだよ」と言ったらしい。
夜遅くまで起きていたり、悪いことをするとおばけが来たり鬼さんが来たりすることは子どもによく言われるファンタジーだが、これからはそこに「おまわりさんが来て父さんがおこられる」というリアルな現実が組み合わされることになった。そしてその現実に向き合うべきなのは、もちろん養育者の方であることは間違いない。もうすぐ4歳になる父として、共に成長していきたいと思っている。

(by 黒沢秀樹)

『できれば楽しく育てたい』黒沢秀樹・著 おおくぼひでたか・イラスト

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※編集部より:全部のおたよりを黒沢秀樹さんが読んでいらっしゃいます。連載のご感想、黒沢さんへの応援メッセージなど何でもお寄せください。<コメントフォーム
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