老化と介護と神経科学3「パーキンソン病の不思議な現象 paradoxical kinesia」

前々回私は、「神経科学の視点から見ると、老化というのはなかなか面白いものである」と書いた。こういう、深刻な問題を突き放して見る視点は、科学者だけのものではなく、芸術家にも共通するもののようだ。

ホテル暴風雨の風木オーナーは『小説家が地獄のような実体験のさなかでも「あ、これいつかネタにしてやろ」と思うように』と例えていたが、これは夏目漱石の言うところの「非人情」と同じ心境ではないだろうか。
小説「草枕」の冒頭の場面で主人公は独語する。

「恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局に当れば利害の旋風に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解しかねる。これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ」

そうして、旅の中でつかの間非人情の境地を楽しもうとする。
しかし非人情は、自分の苦痛や混乱を突き放して見るぶんには非常に有益だが、他人の苦痛を突き放してしまうと、これは「不人情」と紙一重である。

秋の初め、私は仕事で京都に出張した。京都はまだまだ暑いのだろうな、と思っていたが、幸いその日は暑さもだいぶんおさまっていた。夏休みシーズンは終わっているので、新幹線コンコースも、7月に来た時ほどごった返してはいなかった。大きなスーツケースやバックパックを持った外国人の数もだいぶん減ったし、修学旅行の団体は見当たらなかった。

新幹線の改札を出ると右に折れ、烏丸中央口に向かう長い階段を登る。今日はいつもと行き先が違うので、乗り馴れた京都市バスではなく、京阪バスに乗らなければならない。京阪のバス停は、どこにあったか。思い出せなかったが、それはまあいい。何しろバスターミナルには、何人もの案内係が、手ぐすねを引いて待ち構えているのだ。

階段を登りきり、そのまま10メートルほど歩いたところで、私はその老人とすれ違った。知り合いではない。有名人でもない。全くの赤の他人である。
私の目を引いたのは、彼の歩き方だった。前屈みの姿勢。狭い歩幅でちょこちょこと歩く、特徴的な歩き方。典型的なパーキンソン病患者の歩き方だ。

パーキンソン病。中脳にある、ドーパミンという神経伝達物質を持つ神経細胞が死ぬことによって起こる。前屈みの姿勢、ちょこちょこ歩き、緩慢な動作、手の震え、思ったように体を動かせない、表情がなくなる、などの運動障害が目立つが、物事の手順が覚えられないなど、認知機能の障害が見られる場合もある。精神症状として抑うつが起こるケースも多く、臨床的には大きな問題である。日本での有病率は人口10万人あたり100人程度。多くは中年期以降に発症し、高齢になるほど有病率が上がる。

私は立ち止まり、老人を目で追った。「あれ」が見られるかもしれない。私は時計を見た。好奇心に駆られた私は、バスの時刻まで十分余裕があることを確認し、しばらく老人を観察することにした。
階段まで残り数メートル。普通の人なら5秒で歩ける距離である。しかし、彼の歩き方では、なかなか距離が縮まらない。何人もの通行人が、彼を追い越していく。30秒、いや、1分近くかかったかもしれない。彼が階段に差し掛かったとき、私が期待した通りのことが起こった。
老人は、すたすたと軽やかな足取りで階段を下り始めたのだ。

“paradoxical kinesia”という現象だ。普段は体が固まったようになってうまく動けないのに、階段や横断歩道などの縞模様が目に入ったり、リズミカルな音が聞こえると、途端に滑らかに動けるようになる。現象としては広く知られているが、なぜそうなるかは全くわかっていない。

私は満足して、バスターミナルに向かって歩き始めた。そしてその時初めて、悪いことをしたと思った。
私は、あの苦労して歩いていたおじいさんを助けようなどとは全く考えなかったのである。せめて階段まで手を引いてあげれば、少しは楽だっただろうに。
素人が下手に介助しようとすると返って危ないかもしれない。と、いうのは屁理屈である。私は、危ないから助けるのをやめたのではなく、好奇心をそそられるばかりで、最初から助けようという気持ちなど起きなかったのである。
これでは、不人情と謗られてもしかたがないだろう。やれやれ。
「やれやれ」と言うより、どうしようもないのだが。

(by みやち)

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