【 対立と襲撃 】
前回の魔談冒頭で、延暦寺は比叡山の山頂から滋賀県の方(琵琶湖の方)に降りていく途中にあると語った。
東塔(とうどう)
西塔(さいとう)
横川(よかわ)
延暦寺はこの3つの区域に分かれている。これらの寺院群全体(150ほどある)をひっくるめて延暦寺と呼ばれている。
この寺の開祖・最澄(767−822)が草庵を建てて最初に活動を開始したのが東塔である。
その後、最澄と同じように唐に留学し、多くの仏典を持ち帰って比叡山密教の発展に尽くした名僧が次々に出てくる。
ところが
西塔を開いた円珍
横川を開いた円仁
このふたりの名僧の門下生たちが次第に対立するようになる。
とうとう円珍派と円仁派に別れ、激しく敵対。
「同じ山の坊さんたちが喧嘩? 修行が足らんじゃないの」というほかない。
ついに993年、円仁派は円珍派の拠点となっていた千手院を襲撃。これを打ち壊し、円珍派の僧(約1000人)を比叡山から追放。比叡山を降りた円珍派も復讐を開始。以後、ドロドロの坊さん合戦となる。師匠が泣きますな。
比叡山・千手院
このような経緯で、比叡山は次第に「武装した坊さんたちでいっぱい」の山となっていくのだ。日本仏教史に残る数々の名僧を輩出した山であるはずが、修行が足りない坊さんたちの武装拠点となっていくのだ。
【 到 着 】
さて本題。
入山当日の朝。私は篠田先生の車を待っていた。彼の息子、和一郎君と一緒に延暦寺に行くことになっていた。
じつはこの件についても私の両親は前の夜に口論していた。父はグループ展参加の搬入期日が間近であり時間の余裕が全くなく、ここ1週間ほどは終日アトリエにこもって制作に没頭したいという希望だった。母はてっきり父の車で私が延暦寺に行くのだろうと思っていたらしく、「息子が10日間の長旅に出るというのに、アトリエにこもりたいとはなにごと!」てなことで口論となったらしい。父は父で「篠田先生の運転なら安心だ。俺は行き先をよく知らない」と言ってさっさとアトリエに逃げていったらしい。
母のブツブツを聞きながら篠田先生の車を待っていると、しばらくして白いフォルクスワーゲンが独特のエンジン音を響かせてやってきた。ビートルと呼ばれた昔のフォルクスワーゲンである。私は喜んだ。この丸っこい甲虫のような車が好きだったが、まだ乗ったことはなかった。車内は意外に狭く感じたが、発進時の「ドルルル……」といったエンジン音も独特の重みがあり私は喜んだ。
和一郎君は助手席に座っていた。彼は両膝を助手席に乗せ、後部シートに座った私に向かって右手を伸ばしてきた。我々は握手した。彼は赤い頬がツヤツヤとした肥満児で、私がちょっと驚いたのは頭がいわゆる「坊主刈り」だった。髪の長さは5ミリぐらいだろうか。「もうお坊さまになった気分でそんな頭なのだろうか」と私は思ったが、黙っていた。
車が市街地から比叡山ドライブウェイに入ると高度感があり、私は喜んだ。次々に流れていく木々の間に京都の街並みがはるか彼方までずっと見渡せるようになった。フォルクスワーゲンが到着したのは延暦寺のどのあたりなのか私には全然わからなかったが、周囲には観光客も僧も誰もいなかった。遊びに来たのではないことがわかっていたので、私はなにか覚悟するような重い気分でフォルクスワーゲンから降りた。
「ここでちょっと待っていてくれ」
篠田先生はそう言い残して山門に入っていった。私は周囲の巨木を見上げた。ものすごい数のセミの声が四方八方から響いてきた。私の家の周囲ではありえないようなその音響に包まれて、「ああぼくは家から遠く離れてこんな山奥まできてしまった」というホームシックで胸がギュッと締めつけられるような気分だった。
ふとかたわらの和一郎君を見ると、彼はしゃがんでじっと地面を見ていた。なにをしているのだろうと思って近づくと、彼はアリを見ていることがわかった。「比叡山のアリはでかいなぁ。さすがやなぁ」と言った。なにが「さすが」なのか私にはよくわからなかったが、確かに黒々とした大きなアリがあちこちをせわしなく走り回っていた。
しばらくして篠田先生がひとりの僧を連れてきた。まだ若い僧だった。
「どうぞよろしくお願いします」
篠田先生が深々と頭を下げると、その僧は両手を合わせて拝むような挨拶をした。篠田先生はニヤッと笑って我々を見ると、さっさとフォルクスワーゲンに乗りこんだ。運転席の窓から手を出して軽く降り、フォルクスワーゲンは独特のエンジン音を響かせて去っていった。僧はフォルクスワーゲンが視界から消えるまでずっと両手を合わせていた。
【 つづく 】