エドガー・アラン・ポー【アッシャー家の崩壊】(3)

【 廃墟という素材 】

あなたは小説を読む人だろうか。小説を読んでいるとき、あなたは……
(1)現実を離れ、その世界にどっぷりと入りこんでいる。
(2)登場人物の誰かに感情移入し、その人物と喜怒哀楽を共有している。
(3)時間的に余裕があれば、何時間でも本を手にして小説の世界で生きることができる。
(4)現実に戻って本を閉じたとき、すでにその本の半分以上を読んでしまったことに気がつき、「ああもう数回でこの話は終わってしまう」と、ちょっと寂しい気分になる。

いかがですかな。もしあなたが(1)から(4)まですべて「そうそう、そのとおり」なのであれば、これは相当の小説愛好家だ。
じつは上記4項目は私ではなく同郷の友人がそうであり、彼から聞いた4項目なのだ。

私はどうか。(1)と(2)は「そうそう、そのとおり」だが、(3)はそうでもない。1時間も読んだらふと現実世界の進行が気になり、本を閉じて仕事の進行管理をしたくなる。長年にわたりフリーで生きてきたデザイナーの宿命かもしれない。(4)に至っては全くそんなことはない。むしろ「……お、半分を越えたか。じゃあここから先は、最終局面に向かって一気に「急」になっていくかな」と期待するぐらいだ。「急」とは「序破急」の「急」である。

じつはつい先日、上記「4項目友人」と喫茶店で雑談する機会があった。この友人は「魔談」を読んでいる。時々メールで感想や意見もくれる。その席でも「アッシャー家の崩壊」に話が及んだ。
前回の魔談で語ったとおり、この小説は短編ながら、冒頭部分「アッシャー家にたどりついた時の屋敷のたたずまい」描写がずいぶん長々と続く。その話をしたら友人は笑った。
「読者にその世界にどっぷりと浸かっていただきたいという主旨もあるし、その暗く陰気な屋敷にまさに飛びこんで行こうとする語り手の覚悟みたいなものを味わってほしいという意味じゃないかな」
「なるほど」

ついで友人はちょっと面白い話をした。彼に言わせれば、ポーという男はもちろん小説家として一流だが、マガジニストとしても大いに活躍した男だったので、「ものすごく読者を意識した作家だったんじゃないかな」というのだ。その話がこの「アッシャー家の崩壊」とどう結びつくのか。
「本国のアメリカよりも、当時のヨーロッパで評判とか評価を得たいという意欲があったのかもしれん」というのだ。
「なにしろヨーロッパには廃墟になった屋敷とか修道院とかが多い。今は観光財産として修復された修道院も、じつは廃墟になっていたのが多い」
「修道院?……なんで修道院が廃墟になる?」

たとえば英国では、宗教改革(16世紀)があった。ローマ・カトリック教は否定され、一斉にイギリス国教会となった。カトリックの教会や修道院は打ち捨てられた。いたるところで廃墟と化した。
「そういうのがヨーロッパにはゴロゴロとある。17世紀になっても18世紀になっても、そういう廃墟の暗いイメージから生まれた小説がヨーロッパには多い」
なるほど我々日本人とは違う「ダークサイドムード」とでもいうべき遺産がヨーロッパには数多くあるらしい。

【 謎の医者 】

さて本題。
アッシャー家に到着したあなたは、その建物の陰鬱なたたずまい、荒れはてた壁、前面の沼、枯れた樹木……それらを眺めてため息をつく。そして玄関にたどり着く直前に、この屋敷にはおそろしく長いヒビが入っていることに気がつくのだ。

おそらく、念入りに観察する人の眼には、ほとんど眼につかないくらいの一つのひびわれが、建物の前面の屋根のところから電光状に壁を這いさがり、沼の陰気な水のなかへ消えているのを、見つけることができたであろう。こんなことに眼をとめながら、私は短い土手道を家の方へと馬を進めた。そして待ち受けていた召使に馬をとらせると、玄関のゴシック風の拱廊に入った。(原作)

屋敷の中に入ったあなたは、今度は案内の侍者について屋敷の奥深くへと入って行く。侍者は始終無言。複雑な廊下は薄暗く迷路のようで、どこまでも続いているかのようだ。

ある一つの階段のところで、私はこの一家の医者に会った。彼の容貌は卑屈な狡猾と当惑とのまじった表情を帯びているように私には思われた。彼はおどおどしながら挨拶して通りすぎて行った。(原作)

なんとこの屋敷内には「お抱えの医者」までいるのだ。ただちょっと不可解なのは、一見してなぜ即座に医者だとわかったのだろう。自己紹介したり会話した形跡はない。彼はただ「おどおどしながら挨拶して通りすぎて行った」だけなのだ。聴診器でも胸にぶら下げていたのだろうか。病院じゃあるまいし、まさかそんなことはないだろう。そのあたりの説明が全くない理由がよくわからない。ともあれようやく目指す「書斎」にあなたはたどり着いた。

私は悲しみの空気を呼吸しているのを感じた。きびしい、深い、救いがたい憂鬱の気が一面に漂い、すべてのものにしみわたっていた。私が入ってゆくと、アッシャーはながながと横たわっていた長椅子から立ち上がって、快活な親しみをもって迎えたが、そこには度をすぎた懇切……人生に倦怠を感じている俗人のわざとらしい努力……が大分あるように、初め私には思われた。だが一目彼の顔を見るとすぐ、彼の完全な誠実を信ずるようになった。(原作)

この「悲しみの空気を呼吸しているのを感じた」という表現はすごいですな。屋敷の内にいて、その屋内に満たされている「悲しみの空気」を呼吸しているだけで、自分もどんどんその世界に取りこまれていく……そのようなじわっと来る恐怖を感じる。いかがだろうか。

【 つづく 】


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