デカローグ振り返りその1:寸止め讃頌

ただいま『心を紡いで言葉にすれば 第26回:つくしのように』にて、『デカローグ読者アンケート』を実施中です。↓

ホテル暴風雨10周年記念企画連載 大日向峰歩作『デカローグ』の読者アンケートです。今後の制作の参考にさせていただきたいので、忌憚のないご意見・ご感想をお寄せください。

既に御回答下さった皆様、ありがとうございました!

一点お詫びとお願いをさせてください。

私のアンケートでは、従来、回答して下さった方のメールアドレス等の個人情報を一切収集していない設定になっていますが、フォーム設定上のミスがあり、8月25日までの入力分について、自由記述を記入した際にメールアドレスを入力しないと、回答できない設定になっていました。送れなかった方もいらっしゃるかもしれません。申し訳ございませんでした。

今はメールアドレスを入力しなくても回答できるように修正しましたので、もしよかったら、再度の御回答をお願いします。(再回答の際は「再回答です」と、ご記入いただけると幸いです。お手数をおかけして、すみません)

皆さんに回答して頂いた結果は、集計し、次回ご報告できれば、と思っています。
回答がまだの方、まだまだ間に合います! 個人情報を記入することもないので、安心して御回答いただけると幸いです。今後の励みにもなりますので、是非とも奮ってご回答いただけると幸いです。

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今回の『内言、漏れてるから』は、エッセイでも小説でもなく、『デカローグ』の一人反省会をしたいと思います。皆さんの言葉を受けての反省会は、次回、アンケート結果を踏まえてじっくりと行いたく存じます。

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ホテル暴風雨10周年記念連載『デカローグ』を書き終えて、読み返した時、ふと頭に過った言葉がありました。

その言葉と最初に出会ったのは、確か、梅崎春生の文庫本の巻末に記された、中野翠さんの解説でした。
当時、私は梅崎作品のとりわけ短編やエッセイが好きで、愛読していました。

梅崎春生と言えば、一般的に「桜島三部作」と呼ばれる『桜島』『日の果て』『幻化』という、戦争モノが取り上げられがちです。確かにそれらは、梅崎春生の精神性のようなものを如実に表しているのかもしれません。ほとんど実話らしいし。よほど戦争が辛かったんだなあと思います。

でも私は、彼の書く短編が好きでした。
初めて『蜆』を読んだ時の衝撃、『Sの背中』に垣間見える驚異の観察眼、『ボロ家の春秋』における人間の不条理な可笑しさ、市井の人々の中を視点が次々移り行き、あたかもそれを見守るような『春の月』。どれも忘れられない読書体験です。
そして、そこに共通するのは〝最後まで書き切らないこと〟の醍醐味。

そして、その真骨頂が最もいかんなく発揮されるのは、エッセイでした。

中野さんも解説で取り挙げている『チョウチンアンコウについて』なんて、チョウチンアンコウの生態を綴り、それに対し「この瞬間のことを考えると、私は何か感動を禁じ得ない」と表す。それに続く言葉として「どういう感動かというと」と付けたかと思ったら、「よくはわからないけれども」の言葉で締め、結末の描写を読者に丸投げする。自分の感動なのに。

要は、余白を残して、というか、余白しかない。

そのようなスタイルを称して、中野さんは『寸止めの極意』と命名したのでした。
「ああこれを〝寸止め〟と言うんだなあ」と、その表現を付与した中野さんの感覚に感激したのを覚えています。

「寸止め」というのは、中野さんの解説によると

相手の体をこぶしで殴るように見せて、体に触れるギリギリのところでピタッと止めてしまうというテクニック

のことらしい。主に空手用語なのでしょうか。(出典:ちくま日本文学全集『梅崎春生』 巻末解説 中野翠著「寸止め」の極意)

自分でものを書くようになって、意識したつもりはないけれど、なんとなく最後まで書ききらないのは、もしかしたら、そうした「寸止めの極意」に対する、ある種の〝絶対的な帰依〟のようなものがあるからなのかもしれません。

今回の『デカローグ』は、全10作品全てが、これまで私が公開してきたものを通して、最も〝寸止め感〟があったように思います。最後の1ピースを置かない未完成のパズルのような。
書きながら「寸止めてるなあ、私」とか思ったりしてました。いや、意外とそうでもないのかもしれませんが。

考えてみれば、キシェロフスキ作品を含め、ヨーロッパ映画(とりわけフランス)の類は、この寸止め技法を多用しているように思います。どれも最後まで描ききらない。Fin.マークの先を、銘々に想像させる。

私はこれが居心地よくて、勧善懲悪&白黒はっきりラストなハリウッド大作には一切興味を示さず、映画と言えば、ヨーロッパ映画ばかり観ていたように思います。

けれども、人は時として矛盾するものです。

私は岩手が好きで、何かにつけてよく訪れるのですが、どうしても馴染めないものが一つだけあります。

それは「じゃじゃ麺」です。

といってもそれは、関東近郊のスーパーやコンビニで売られている「ジャージャー麺」とは異なります。
単に、ひらがなとカタカナの違いでもありません。伸ばし棒のあるなしでもありません。

この二つ〝麺の上に肉味噌と胡瓜が乗っている汁無し麺〟というビジュアル面は、ほぼ同じ。現に私も、初めて食べるまでは同じものだと思っていました。ですが、全く似て非なるものなのです。

一般的に「ジャージャー麺」は中華のちぢれ麺を使用しますが、「じゃじゃ麺」はきしめんやうどんのような白くて太い麺を使用します。しかも、讃岐のそれというよりは、伊勢や博多のそれに近いもちもち感です。決して、喉越しを楽しむ麺ではありません。

それが提供されると、客は、一口も口にすることなく、いきなりテーブルにある多種多様の調味料を自由自在にかけ、自分なりのアレンジを施します。地元の人はみんな〝自分だけの味〟を知っていて、それを再現すべく、さもルーティンワークのように調味料を加えていく。その手際の良さ!

じゃじゃ麺における〝自分だけの味〟など想像したこともない私は、提供された〝今の味〟を知らないと、何をどれくらい入れたら良いのか、皆目見当がつかないので、流儀に反して食べてみます。

でも、わからないのです。これ、何が正解?

何と形容していいのかわからない、食べたことのない味。
ぼんやりしてて、ところどころに存在する肉味噌と胡瓜の食感だけが、薄ーく口に広がる。

要は、味がしないのです。それゆえに、何かを加えなければならないのはわかる。
でも、目の前の調味料を加えた後の味のイメージも沸かなければ、何が「これこれ!」という自分の正解になるのかもわからない。したがって、何も入れられない。

項垂れながらモソモソと味のしない麺を啜っていると、やがてある思いがこみ上げてきます。

「ちゃんと味決めてから、提供して下さい! 客に味を決めてもらうとは、何事ぞ!」

モヤモヤしながら味のしない麺を啜り続けていると、同行者が「最後まで食べないよ!」と言いました。最後まで食べない??

すると同行者は、中途半端に残した僅かな麺が入っている皿に、調味料と共にテーブルに無造作に置かれた生卵を割り入れ、グシャグシャにかき混ぜると、店員に「ちーたん」と呪文のような合言葉を告げました。
その言葉を合図に、徐に店員が皿を下げたかと思ったら、なみなみのスープが注がれた皿が再び戻されるのです。

見た目は普通の玉子スープ。

〆はスープなんだね。
そう思って、やっと、見慣れた、味の想像ができる食べ物がやって来た!と喜びます。

一口啜ります。
スープと同時に増してくれた肉味噌が、霞の彼方に漂っています。

うん。やっぱり味がしない。知らないスープだ。

見渡すと、戻されたちーたんに、客は再び、各々好みの調味料をドバドバ入れています。
どこまで行っても、正解を探し続ける食の旅です。

スープの中に僅かに残っている、あのブニョっとしたつかみどころのない麺を掬い、口に運びながら、私は思っていました。

「なんだこれ。最初から最後まで客に味を委ねるなんて、飲食店として怠慢だ!」

怒り心頭で口をへの字にしながら、ふと思います。

……ちょっと待てよ。
これって、いわゆる、寸止めってやつじゃないの? 私の敬愛する「寸止めの極意」。
つまりは、味に余白を持たせてるってやつ?

そして思い出します。
フランソワ・オゾン監督の『スイミング・プール』を、今はなき渋谷のシネマライズで観た時のことを。
終演後、椅子から立ち上がることさえできずに「え?どういうこと? 意味わかんないんだけど。何これ?」と言い合い、混乱していた若い男女二人組の様を。
彼らを横目で見ながら一人、席を立ち、出口に向かいながら、訳知り顔で「これがフランス映画じゃ」と心で独り言ちた私を。

じゃじゃ麺を食べている時の私は、あの時の二人と同じだったんだなあ。ごめん。若者。

作り手が完成させた食べ物を提供してほしいと思うように、映画にしても小説にしても、最後までちゃんと描いてほしい、と思う人もいる。
ラストの責任を作り手が負うべきだ、と。観客や読者に丸投げするのではなく。

一方で、余計なことは言わないでほしいと思う人もいる。
全てわかっているのだから、あるいは私はこう思いたいのだから、壊さないで、と。

余白は、言葉以外のものを載せて、みる側に存外の解釈を届けてくれる一方、言葉足らずによる誤解や未消化を招いたりもする。

コスパやタイパを優先する人にとっては、余白ほど無駄なものはないのかもしれません。
寸止めなんかじゃなく、ちゃんと当てろよ!的な。
誰だって痛いのは嫌だけど、最後まで当て切らないのは、やはり無責任なのかもしれないと思ったりもします。

何でもかんでも責任の所在をはっきりさせたがる、この時代。
何かをしたら責任を取るのは、社会人として当たり前のこと。でも、不可抗力など引き受けることが難しい責任もある。
自由を行使するには責任は伴う。これはセット。だから、ある程度までの責任は引き受ける。でも、必要以上の責任を引き受ける必要はないんじゃないかなと思ったりもするのです。

逃げてる、と言えばそうかもしれない。

私の言葉が、私が想定した範疇を越えて誰かに届いた時、それによって誰かを傷つけてしまうことへの恐れ。あるいは、詐欺師の言葉のように、誰かを不当に安心させてしまうことへの危惧。考えすぎると何も書けなくなるから。

ひょっとしたら寸止めこそが、生き抜く術なのかもしれない。だとしたら、梅崎先生、あなたはやっぱりすごい。

今度盛岡に行ったら、あの苦手な「じゃじゃ麺」にもう一度立ち向かって、もとい味わってみようと思います。寸止めの先を自分で作ってみます。最後まで飲み干せますように。

(by 大日向峰歩)


*編集後記*   by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟

どうもこんにちは、寸止め映画一派の雨梟です!
じゃじゃ麺も多分、楽しめるんじゃないかと思います(食べたことないですが)。
でも食べ物だったら、味の決まったものも好きです。
じゃあなぜ映画や小説は「寸止め」派かというと、想像の余地があるからというより、リアルな手応えを感じるからではないかなあと思います。現実に脚本はないし作者の意図もない。あったとしてもその書き手を知ることはない。創作物があまりに「決まって」いると、お膳立て感……ならばまだいいのですが、作者自身も意識していない、世界に対する先入観のようなもので見ている世界を狭められてしまう感じがすることがあります。あなたはどうでしょうか。『デカローグ』全話へのリンクを改めて。「このお話の続きが気になる」という一編があったら、ぜひアンケートでポチッとお知らせください。

↓アンケートはこちらです。ぜひご参加ください↓

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来週はアンケートの集計をふまえてのまとめです。どうぞお楽しみに。作者へのメッセージ、「ホテル暴風雨」へのご意見、ご感想などはこちらのメールフォームにてお待ちしております。

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