【善財くんがゆく!】第七話 善財くん、世界の広さを知る:第一の善知識・徳雲比丘 (4)

善財は、
しばらく黙ったままだった。

自分が今、
何を見せられたのか。

何を聞いたのか。

うまく整理できない。

だが、
ひとつだけ分かることがあった。

世界は、
自分が思っていたより、
遥かに広い。

そして、
“仏”というものも、
ただひとつの形ではない。

善財は深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

徳雲は笑った。

「うむ」

「オレ……
少しだけ分かった気がします」

「ほう?」

「いえ、
やっぱり全然分かってないかもしれませんけど……」

徳雲は腹を抱えて笑った。

「それでよい!」

笑いながら、
何度も頷く。

「それでよいのじゃ、少年!」

ひとしきり笑うと、
徳雲はふっと空を見上げた。

その目が、
また少し遠くなる。

何かを聞いている。

何かを見ている。

そんな顔だった。

やがて徳雲は、
ぽつりと言った。

「……ああ。
北の方で、
またひとり旅立ったな」

善財は黙って聞いている。

徳雲は続けた。

「人というものは不思議じゃ。
泣きながら生まれ、
迷いながら歩き、
何かを求め続ける」

そして、
善財へ視線を戻した。

「おぬしも、
そのひとりじゃ」

善財は静かに頷いた。

徳雲は少し考え込む。

「さて……
何を話したものかな」

そう言って腕を組むと、
妙に困った顔をした。

「困った」

「え?」

「ワシ、
誰かに教えを説くの、
あまり向いておらんのじゃ」

善財は思わず目を瞬かせた。

徳雲は真顔で続ける。

「気づくと、
あちこち見始めてしまうのでな」

その直後、
徳雲は突然横を向いた。

「あっ、
そこ危ない」

善財も慌ててそちらを見る。

だが、
何もない。

徳雲は安心したように頷いた。

「うむ。
助かった」

「……誰がです?」

「東の世界の修行者」

善財は頭を抱えそうになった。

徳雲はケロリとしている。

「まあ、
つまりじゃ」

徳雲は笑った。

「ワシにできるのは、
“世界は広いぞ”と教えるところまでじゃな」

その言葉に、
善財は少し驚いた。

徳雲ほどの存在でも、
「そこまで」なのか。

徳雲は善財の表情を見て笑う。

「勘違いするなよ、少年」

その声は、
どこまでも穏やかだった。

「道はひとつではない。
だからこそ、
ひとりの人間だけで、
全部を教えることなどできんのじゃ」

風が吹く。

木々が揺れる。

徳雲は、
どこか嬉しそうですらあった。

「だから旅をする」

そして、
ゆっくりと指を南へ向ける。

「次は、
海雲比丘を訪ねるとよい」

善財は顔を上げた。

「海雲……?」

「海辺におる坊主じゃ」

徳雲は笑う。

「ワシとは逆に、
“ひとつ”を深く見続けておる男よ」

善財はその言葉を反芻した。

“世界すべてを見る者”の次に、
“ひとつを見続ける者”。

まだ会ってもいないのに、
すでに奇妙だった。

徳雲は空を見上げる。

「うむ。
あやつなら、
今のおぬしにちょうどよい」

そして、
何かを聞くように目を細めたあと、
小さく笑った。

「……どうやら向こうも、
おぬしを待っとるらしい」

善財は、
徳雲の指し示した南の方角を見つめた。

海雲比丘。

今度はどんな人物なのだろう。

正直、
少し怖かった。

だが同時に、
胸の奥が熱くなるのを感じていた。

世界には、
自分の知らないものが無数にある。

そしてそのひとつひとつに、
“道”がある。

そのことを、
善財は今日、
初めて本当の意味で知った気がした。

善財は改めて徳雲へ向き直る。

そして深く頭を下げた。

「ありがとうございました」

徳雲は、
どこかぼんやりした顔で空を見ていた。

聞こえているのかどうか、
少し怪しい。

だが数秒後、
ふっとこちらを見た。

「ああ」

「よい旅を」

その言葉は、
驚くほど静かだった。

善財は顔を上げる。

徳雲はもう、
半分ほど別の世界を見ているような目になっていた。

空。

雲。

風。

そして、
どこか遠く。

徳雲は小さく笑う。

「おぬし、
これからもっと混乱するぞ」

善財は苦笑した。

「やっぱりそうなんですか」

「うむ」

徳雲は頷く。

「だが、
それでよい」

そして、
どこか懐かしそうな声で言った。

「“分からぬ”まま歩ける者だけが、
遠くまで行ける」

風が吹いた。

木々が大きく揺れる。

善財はその言葉を、
胸の奥で何度も繰り返した。

――“分からぬ”まま歩け。

それは不思議と、
恐ろしい言葉には聞こえなかった。

むしろ、
肩の力が少し抜けるような感じがした。

善財はもう一度だけ頭を下げる。

「行ってきます」

徳雲は軽く手を振った。

だがその直後、
急に別方向を向く。

「おお、
そっちは今まずいな」

善財は思わず吹き出した。

徳雲は真顔で頷いている。

「火を使うなと言ったのに……」

「誰に言ってるんですか」

「南西の世界の僧」

善財は笑った。

徳雲も笑う。

山の風が、
二人の間を吹き抜けた。

善財は背を向け、
再び南へ向かって歩き始める。

山道を下りながら、
何度か振り返った。

そのたびに、
徳雲はそこにいた。

だが最後に振り返ったとき――

もう、
姿は見えなかった。

善財は立ち止まる。

風だけが吹いている。

妙峰山の緑が、
静かに揺れていた。

善財はしばらくその景色を見つめていたが、
やがて小さく息を吐き、
再び歩き出した。

海の方から、
かすかに潮の匂いが流れてきていた。


☆     ☆     ☆     ☆

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