善財は、
しばらく黙ったままだった。
自分が今、
何を見せられたのか。
何を聞いたのか。
うまく整理できない。
だが、
ひとつだけ分かることがあった。
世界は、
自分が思っていたより、
遥かに広い。
そして、
“仏”というものも、
ただひとつの形ではない。
善財は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
徳雲は笑った。
「うむ」
「オレ……
少しだけ分かった気がします」
「ほう?」
「いえ、
やっぱり全然分かってないかもしれませんけど……」
徳雲は腹を抱えて笑った。
「それでよい!」
笑いながら、
何度も頷く。
「それでよいのじゃ、少年!」
ひとしきり笑うと、
徳雲はふっと空を見上げた。
その目が、
また少し遠くなる。
何かを聞いている。
何かを見ている。
そんな顔だった。
やがて徳雲は、
ぽつりと言った。
「……ああ。
北の方で、
またひとり旅立ったな」
善財は黙って聞いている。
徳雲は続けた。
「人というものは不思議じゃ。
泣きながら生まれ、
迷いながら歩き、
何かを求め続ける」
そして、
善財へ視線を戻した。
「おぬしも、
そのひとりじゃ」
善財は静かに頷いた。
徳雲は少し考え込む。
「さて……
何を話したものかな」
そう言って腕を組むと、
妙に困った顔をした。
「困った」
「え?」
「ワシ、
誰かに教えを説くの、
あまり向いておらんのじゃ」
善財は思わず目を瞬かせた。
徳雲は真顔で続ける。
「気づくと、
あちこち見始めてしまうのでな」
その直後、
徳雲は突然横を向いた。
「あっ、
そこ危ない」
善財も慌ててそちらを見る。
だが、
何もない。
徳雲は安心したように頷いた。
「うむ。
助かった」
「……誰がです?」
「東の世界の修行者」
善財は頭を抱えそうになった。
徳雲はケロリとしている。
「まあ、
つまりじゃ」
徳雲は笑った。
「ワシにできるのは、
“世界は広いぞ”と教えるところまでじゃな」
その言葉に、
善財は少し驚いた。
徳雲ほどの存在でも、
「そこまで」なのか。
徳雲は善財の表情を見て笑う。
「勘違いするなよ、少年」
その声は、
どこまでも穏やかだった。
「道はひとつではない。
だからこそ、
ひとりの人間だけで、
全部を教えることなどできんのじゃ」
風が吹く。
木々が揺れる。
徳雲は、
どこか嬉しそうですらあった。
「だから旅をする」
そして、
ゆっくりと指を南へ向ける。
「次は、
海雲比丘を訪ねるとよい」
善財は顔を上げた。
「海雲……?」
「海辺におる坊主じゃ」
徳雲は笑う。
「ワシとは逆に、
“ひとつ”を深く見続けておる男よ」
善財はその言葉を反芻した。
“世界すべてを見る者”の次に、
“ひとつを見続ける者”。
まだ会ってもいないのに、
すでに奇妙だった。
徳雲は空を見上げる。
「うむ。
あやつなら、
今のおぬしにちょうどよい」
そして、
何かを聞くように目を細めたあと、
小さく笑った。
「……どうやら向こうも、
おぬしを待っとるらしい」
善財は、
徳雲の指し示した南の方角を見つめた。
海雲比丘。
今度はどんな人物なのだろう。
正直、
少し怖かった。
だが同時に、
胸の奥が熱くなるのを感じていた。
世界には、
自分の知らないものが無数にある。
そしてそのひとつひとつに、
“道”がある。
そのことを、
善財は今日、
初めて本当の意味で知った気がした。
善財は改めて徳雲へ向き直る。
そして深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
徳雲は、
どこかぼんやりした顔で空を見ていた。
聞こえているのかどうか、
少し怪しい。
だが数秒後、
ふっとこちらを見た。
「ああ」
「よい旅を」
その言葉は、
驚くほど静かだった。
善財は顔を上げる。
徳雲はもう、
半分ほど別の世界を見ているような目になっていた。
空。
雲。
風。
そして、
どこか遠く。
徳雲は小さく笑う。
「おぬし、
これからもっと混乱するぞ」
善財は苦笑した。
「やっぱりそうなんですか」
「うむ」
徳雲は頷く。
「だが、
それでよい」
そして、
どこか懐かしそうな声で言った。
「“分からぬ”まま歩ける者だけが、
遠くまで行ける」

風が吹いた。
木々が大きく揺れる。
善財はその言葉を、
胸の奥で何度も繰り返した。
――“分からぬ”まま歩け。
それは不思議と、
恐ろしい言葉には聞こえなかった。
むしろ、
肩の力が少し抜けるような感じがした。
善財はもう一度だけ頭を下げる。
「行ってきます」
徳雲は軽く手を振った。
だがその直後、
急に別方向を向く。
「おお、
そっちは今まずいな」
善財は思わず吹き出した。
徳雲は真顔で頷いている。
「火を使うなと言ったのに……」
「誰に言ってるんですか」
「南西の世界の僧」
善財は笑った。
徳雲も笑う。
山の風が、
二人の間を吹き抜けた。
善財は背を向け、
再び南へ向かって歩き始める。
山道を下りながら、
何度か振り返った。
そのたびに、
徳雲はそこにいた。
だが最後に振り返ったとき――
もう、
姿は見えなかった。
善財は立ち止まる。
風だけが吹いている。
妙峰山の緑が、
静かに揺れていた。
善財はしばらくその景色を見つめていたが、
やがて小さく息を吐き、
再び歩き出した。
海の方から、
かすかに潮の匂いが流れてきていた。

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