つまり、「坊主のデキが悪いから嫌い」などと言う人は、単なる仏教嫌いなのじゃ!
施しをする者のことを、「福を産出する田」という意味を込めて「福田」と呼ぶ。
そしてそれには二種類ある。
立派な人や偉い人を心の底から尊敬して施しをするのを「敬田」と呼び、逆にもうどうしようもない連中や動物たちをあわれに思って施しをするのを「悲田」と呼ぶ。
つまり、どうしようもなくバカでゲスな坊主であったとしても、それに対して施しをすれば「悲田」の功徳がゲットできるのじゃ。
・・・納得できんか?
それではこんな例えではどうじゃ。
ただの木切れは別に善でも悪でもない存在じゃが、これを仏さまの形に彫刻し、あたかも本物の仏さまに対するように敬ったとしたならば、本物の仏さまを敬ったのと同じだけの功徳がゲットできる。
逆に、「こんなもの、結局ただの木切れじゃないか!」とばかりに粗末に扱ったならば、本物の仏さまを粗末にしたのと同じぐらいのバチがあたることじゃろう。
ただの物質である木切れでさえ、そうなのじゃ。
ましてや、意思をもった人間ならどうなるか考えても見ろ!
どれほどデキが悪い坊主だったとしても、人びとが心から敬うならば「福田」となり、粗末に扱うならばロクなことにはならんことは疑いないとは思わんか?
「梵網経」には、「羅漢を五百人集めようとするヒマがあったら、誰でもよいから身近な坊主を敬うことだ。その方が余程ためになるのだから」と書かれておる。
まぁ、「重要なテーマに関する講義をしてもらう目的で、人格者を招聘するのはかまわない」とも書かれておるのじゃがな。
話を戻そうか。
坊主のデキの悪さを散々あげつらっておきながら、「オレは別に坊さんじゃないから、いいんだもんね!」などと考えていたとしたならば、それはとんでもないヒネクレものじゃ。
死んでエンマさまの前に引き出された時、「いや、こいつは確かに散々悪いことをしていたが、別に坊さんじゃないから構わんよ」とばかりに地獄行きを免除してもらえるとでも思うかな?
仏教が、「仏弟子のデキの悪さを責めないでください!」と教えるのは、身内をひいきしようというのではない。
他人の過失をあげつらうことでその人自身が地獄に近づくことを、防止しようとしてくれているのじゃ!
・・・まぁ、そうは言っても、ワシだって別に、ルール無視でやりたい放題の坊主どもの肩を持つつもりはないがな。
一般人は坊主の非道な振る舞いをあげつらい、誹謗することの罪が自分に蓄積されていることに気づかない。
かたや坊主は、「僧侶の悪口を言うとはなんとバチあたりな連中だ!」とプンスカ怒るばかりで、自分の振る舞いが非道であることを忘れている。
もしも、この坊主の気持ちを一般人に、一般人の気持ちを坊主につけ替えることができたなら、どれほど濁りきった世の中であっても、徐々に澄んでくることは間違いないのじゃがな・・・
<第十六問 ヘボい坊さんでも悪口禁止! 完>
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