天下を治める国王や大臣が仏教にのめり込んだという例は、国の内外を問わず昔からたくさんの例がある。
政治をうまくいかせるために仏教を利用したものもあれば、仏教を広めるために政治を利用したものもある。
政治目的で仏教を利用したものは、仏教などまるで信じていないようなのに比べればまだマシではあるが、どれだけうまくいったところで、最終的に国中みんなが輪廻を免れない。
そう考えると、中国人が理想とする三皇五帝の時代だって、仏教がなかったわけだから全然うらやましくもなんともないな。(笑)
逆に、仏教を広めるために政治を利用するのは、これはもう「在家の菩薩」と呼ぶべきじゃ。
我が国においては、かの聖徳太子がその代表例じゃ。
あれこれと多忙な政務をこなしつつ、寺を建立し仏像を安置し、経典の解説書を書き下ろし、講義も実施した。
十七条憲法の冒頭に「上下和睦、帰敬三宝」とあるのは、「仏教のため、政治をやります」という宣言なのじゃ。
で、結果はどうだったかといえば、その時うまくいったばかりでなく、七百年たった今でさえ、みなの尊敬を集め続けておる。
聖徳太子の仏教導入に反対したのは、大臣の守屋だけであった。
実はこの守屋というのは、余人をもって変え難いほどの優秀な大臣だったそうな。しかし、仏教導入に真っ向から反対してきたので、殺して排除するほかなかったのじゃ。
中国においては「梁の武帝がその位を追われたのは、仏教にのめり込み過ぎて政治をそっちのけにしたからだ」という批判がある。
そもそもブッダ本人は王子として生まれ、王位を継ぐ予定だったのを放棄して修行に励み、仏教を打ち立てた。
これを「宗教活動にのめり込み過ぎて王位を失った」と批判できるか?
梁の武帝は後年、「もう皇帝なんてイヤ!」とばかりに何度も脱走をはかり、そのたびに臣下に連れ戻されておる。
そして遂に、もう戻らないと固く誓って、大金で自分を奴隷として売り払ったのじゃ。
しかし、それでも臣下は金を払って武帝を買い戻して皇帝の座につけた。
そんな武帝が最終的に王位を失ったことを批判するのは、まったく当たらない。
なにしろ今のこの世の中じゃ。
ブッダや梁の武帝のように全力で世間を捨てることは、なかなか難しい。
ただせめて、聖徳太子のごとく、仏教のために政治をうまく使えば、それが一番よいとワシは思う。
・・・ところで、また戦争を始めるそうじゃな。
ワシはオマエから「これは仏教のためにやるのだ」と聞いておるから、国中の人が反対したとしても、その気持ちが揺らぐことはないと信じておるが、批判にはちゃんと反論しておくべきだと思い、言いたいことを言わせてもらった。
・・・ちょっと言い過ぎたかも知れんがな。
<第十七問 政治と宗教は分離すべき? 完>
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