維摩のオッサンと「絶対の境地」 2/5話(出典:碧巌録第八十四則「維摩不二法門」)

維摩のオッサンは菩薩集団に前述の質問を投げかけて、32の回答を得たのですが、どれも皆「有と無」、「聖と俗」といった対立をとりあげた上で、それらは実は「ひとつ」だとするものでした。

そして文殊菩薩は、「それは言えないし説明できない」と回答したのです。

つまり32人が口で説明できることは全て説明し、文殊が口で説明できないということを説明し、あわせて完璧な説明となったハズだったのです。

ところが、実はこれでスッキリ、キレイサッパリとはならないのです。

なんて言ったらいいでしょうかね。

たとえば庭をホウキで掃除するとしましょうか。

必死に掃いて掃いて掃きまくり、ついに何もかも取り除いたところで、よくよく見ると、あたり一面ホウキの掃き跡だらけで、どうにもあまり美しくない、というような感じですか。

維摩経によると、この時維摩のオッサンは、「ただ何も言わずに黙って座っていた」ということになっています。

そのぐらいのことは我らの間では誰もが知っていることなのですが、雪竇和尚は、あえてこの話をとりあげた上で、「さぁ、維摩はなんと答えたか?言ってみろ!」と迫ったわけです。

皆さんはどう思われますか?

この和尚はちゃんと、わかっているのでしょうか?

それとも、わかっちゃいないのでしょうか?

どうも「夢に見ることすら夢見ない」ってヤツのような気がしますね。

ネタバレを恐れずに言うならば、実は維摩のオッサンは遥か昔に究極の悟りを開いて仏となった人物で一種の超能力者だということになっており、そりゃあ弁舌は達者だよねという感じなのですが、他にも四畳半の部屋に巨大な椅子を3万2千脚入れたとか8万人を入れたとか、凄まじい話がたくさんあるのです。

ほぼ「超常現象」と言えるレベルと思いますが、さて、これはいったいなんの話をしているのだと思われますか?

だから超能力の話だろうって?(笑)

まぁ、そのレベルの理解しかできなくても無理ないところです。だって、維摩のオッサンと対等にやりあえるのは、お釈迦様を除けば文殊菩薩だけなのですから。

にも関わらず、雪竇和尚は「まるっきり「お見通し」ってわけだ」などとおっしゃる。

果たしてこれは、誰が、何を、「お見通し」だと言うことなのでしょうか?

―――――つづく

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