
姦淫をしてはならない
郵便受けに、部屋番号だけが記された封書が入っていた。
切手も貼られておらず、封もされていない。
気持ち悪かった。だから中も開けずに、そのままごみ箱に捨てた。
一週間後、不動産屋から電話がかかってきた。
「大川さんからは、まだお返事頂いていないんですけど、どうされますか?」
一週間前の気持ちの悪い手紙は、家の更新の可否を問うものだったらしい。
再度送ってもらおうとしたが、やめた。どのみち、契約更新はしないつもりだった。
「何か問題でもありましたか?」
この家が好きじゃないとか、隣に住む人がうるさいとか、大家が苦手とか、そういうことではない。普通に暮らせるし、家賃も妥当だし、駅からも近いし、買い物にも困らない。
ただ、恵は一所には暮らせない。それだけだ。
大学を卒業後に一人暮らしするようになって、これまで7回引っ越した。
その全ての家で、一度も更新することはなく、いつも二年の契約満了時に転居した。
どの家も引越ししなければならないほどの理由は、別になかった。そこそこ気に入り、このまま住み続けてもいいと思えるような家もあった。でも、恵は引っ越した。
何回目かの引っ越しの時に、当時付き合っていた人から一緒に住むことを提案された。
それもいいと思った。でもその相手とは、半年も経たずに別れた。
その後も、何人か付き合った人はいた。だけどどの人とも、一年持つことはなかった。
反面、仕事は規則的だった。
大学卒業と共に入社した会社は、勤続15年を優に超えた。この15年間、判でついたかのような同じことの繰り返し。勤務は朝9時から夕方の5時まで。残業なし。週末は休み。イレギュラーなことなどない、決まりきった仕事。
恵は、変化の乏しい日中を補うかのように、仕事終わり、趣味に精を出した。
あり余る時間を費やすのに、いろんな教室に通った。
料理、お茶、お花、書道、陶芸、英会話、ピアノ、ヨガ。でもどれも、長続きしなかった。
「たぶん私、飽きちゃうんだよね」
恵の言葉に、大学からの友人である由紀恵が、パスタを取り分けながら頷いた。
「窓から同じ景色が見えると、安心するどころか、どんどん不安になる。季節の移ろいとか、前の家が取り壊されて空き地になったりとか、そこに家が建ったりとか、小さな変化はあるよ。でもその時だけなんだよね。オッて思うの。そしてまたいつもの日常が続くの」
「へえ、私は見慣れた景色、落ち着くけどなあ。ホッとする」
由紀恵は、そう言うと、取り分けた小皿を恵に渡した。
「ありがと」
恵はそれを受け取りながら、続けた。
「へえ。由紀恵は落ち着くんだね。私さあ、部屋を引っ越しするだけじゃなく、部屋の中もしょっちゅう模様替えするの。仕事から帰って来て思いついて始めちゃうこともあって。徹夜になっちゃったりするんだよね。次の日、辛いんだけどさ。一度変えたくなると、止められないの」
「確かに恵んちって、いつ行っても家具の配置が違う気がする」
「うん。なんか飽きちゃうんだよね」
「ふーん。でもさ、夜中にガタガタしてたら、ご近所さんからクレーム来ない?」
「今のところはない、と思う。言われたことはない」
「だったらいいけど。でもそれ、一人でやるんでしょ?」
「だって誰もいないもん。由紀恵んちみたいに、旦那とかいないし」
「力あるよね。あんな大きな家具、一人で動かすなんて」
「だから、一人でも動かせるような裏技とか、いろいろ知ってるよ」
そういうと、恵はその裏技を話し出した。
由紀恵は、そんな裏技にさほど興味がなかったが、黙って聞いた。そして、恵がある程度話し終えたと思えたタイミングで、言った。
「でもさ、今、家賃上がってるでしょ? 会社の人も、更新後の家賃が異様に値上がりして引っ越そうとしたらしいんだけど、どこも高くて結局借りれないらしくって。今の家賃と同じくらいの広さの部屋を探してたら、会社からどんどん遠くなっちゃったんだって」
「そうなんだ」
「恵の部屋だって、更新後の賃料、結構上がったんじゃない?」
「知らない。見てないから」
「えーっ! 見ないで引っ越すの? 見てから決めたほうが良かったんじゃないの? うちの会社の人の場合はちょっと例外だけど、ああいうのって、新しく契約する住人には世相を反映して高い賃料提示できても、元々住んでる人には、さほど上がられないでしょ? 借地借家法だっけ?」
「ああ、確かに……。でもさ、飽きたから引っ越したいんだもん。私さ、たぶん結婚とかも同じだと思うんだよね。一人の人に決めて添い遂げるとか、絶対無理。かと言って、家みたいに、次々乗り換えることできないじゃん? 一旦籍入れちゃったら」
「うーん。家と結婚とは違うと思うけど。まあ、家のことはもうちょっと真面目に考えたほうがいいよ。私たち来年、40だよ。もし家買うなら、ローン組むにしたって、35年とかじゃん。だとしたら終わるの75よ。頭金をどれくらい払うかにもよるけどさ」
「えーっ。家買ったら75まで引っ越しもできなくて、仕事も辞められないの?やだ無理」
「だって賃貸で住むにしたって、家賃は払うわけじゃん? 親から譲り受けるとか、支払いのない持ち家を持ってるなら別だけど、東京に住む限り、仕事は辞められないんじゃないの? とりあえず買えば75からは、せいぜい管理費と固定資産税くらいだけど、賃貸の場合は賃料がずっとあるわけで。そもそも仕事のない高齢者に貸してくれる家とかある? 買えば最悪の場合、人に貸すなり売るなりもできるじゃん?」
「まあ、そうね」
「ただ今、どんどん値上がりしてるからな。どうせ、バブルの時みたいに弾けるタイミングがあるだろうから、次に下がるのを待つのもありかもしれないけど、いつになるかわからないからね。その間も、こっちはどんどん歳取るわけだし」
確かに由紀恵の言うことも一理あると思った。
だからその日から、分譲も視野に入れた物件探しを始めた。
始めて一週間ほどで、「これはやばい」と気づいた。これまでの物件探しとは異なり、明らかに条件が悪くなっている。買うにせよ借りるにせよ、高すぎるのだ。恵の給料で満足のいく部屋に住むのはほぼ不可能だった。
そして恵は初めて、今の家を更新することに決めたのだ。
管理会社にその旨を電話で連絡したら、予想外の返事が返ってきた。
「……あのう、以前、書面でご回答いただけなかったので、お電話しましたよね? その時、更新されないというお話だったので、実は、次の方にお貸しする段取りがついてまして……」
「ああ……。そこを何とか、できませんか?」
「うーん。大変申し訳ないのですが、次の方との契約もありまして。それに……」
「それに?」
「大川さんの下にお住まいの方が、大川さんが契約更新されないのであれば、と契約更新して下さったので……」
「ん? それってどういう? ちょっとよくわからないんですけど」
「ああ。……大川さん、夜中に、家具の移動とか、なさってません?」
「あ、はい」
「なんかその音が気になってたらしいんですよ。で、最初は契約更新しないという話だったんですけど、大川さんが更新されないという話をしたら、それなら自分は引き続き住むということで……」
羞恥心のような罪悪感と共に、苛立ちのような不満が恵みを襲った。
「え? それって、個人情報じゃないんですか? 私が出るとか出ないとか言うのって」
恵の強気な抗議に対して、管理会社の社員は何の動揺もなく言った。
「でも出て行かれるのは事実ですよね? 私共も部屋を埋めなきゃいけないんで。いずれにしても、ご自身でお断りになられたのですし、今更契約更新はできませんので、期日までに、ご退去のほどお願いします。では、失礼します」
そう言うと、管理会社の社員はそそくさと電話を切った。
恵は途方に暮れたが、どうしようもない。ともかく家を探さなくては。
とはいえ、どれだけ見ても状況は変わらない。
年度末の物件が多い時ならいざ知らず、こんななんでもないタイミングで、恵の条件に適うような新たな物件はそうそう見つからない。
そんなある日、恵のインスタグラムに、ヤドカリの引っ越しの映像が流れてきた。
どうやら、オススメ動画としてAIが表示させたようだ。
物件探しにほとほと疲れ果てていた恵は、ふとそれに釘付けになった。
ヤドカリは、その種類や個体差にもよるが、生涯で概ね数十回の引っ越しをするらしい。
気に入った貝を巡って、ヤドカリ同士が争うことも珍しくない。それも、既に他のヤドカリが住んでいたとしても、である。
真っ向勝負で横取りするのだ。家を奪われたヤドカリは、他の貝を探すしかなく、ちょうどいいのがない場合、新しい貝に引っ越しできず、命を落とすこともあるのだという。
「なんでそんな動画、出てくるのよ?」
家探しに疲れた恵を癒そうと、家に招いてくれた由紀恵が呆れ気味に言った。
「知らないよ。なんかスマホって、勝手にこっちの検索を忖度して、関連してそうなの出してくるじゃん。それじゃない? ここんとこずっと、引っ越しとか家探しっていうキーワード入れまくってたからね」
「それでヤドカリか。それって、どうよ?」
由紀恵は、キッチンに並んで立つ達也に意見を求めた。達也は、その手を止めずに「そうだね」と言い、苦笑した。
「達也さんも料理するんですね。由紀恵はいいなあ。こんな素敵な旦那様がいて、こんな素敵な家があって」
「恵だって、こうなってた可能性はあったんだからね。前の彼、なんてったっけ? あの彼、料理してくれてたじゃん」
「ああ……。そうだったかも」
「しかも、プロポーズされたのに断っちゃって。確か、マンションも持ってなかった?」
「へえ……。そうだったんですね。何で断ったんですか?」
達也が視線をフライパンから外し、恵のほうに向けた。
「そんなことも、あったっけ……」
恵は遠い目をして、グラスのワインを口に含んだ。
「そうだよ。あれ、何で断ったの?」
「うーん。覚えてない」
「嘘。覚えてるくせに。どうせ飽きちゃったんでしょ。恵はね、ずっと同じ人を好きでいることができないんだって」
「できないかどうかもわかんないよ。だって、試したことないもん」
「試したことないって?」
達也が興味深そうに尋ねた。
「それを知る前に別れちゃうから。不安になるんですよね。ずっと思いが続くかどうか。もしかしたら、飽きちゃってるのかなあ。自分でもよくわからないんですよ」
「へえ……。そうなんですね」
そう言うと、達也は視線をフライパンに戻し、調理に戻っていった。
「部屋と一緒。さっさと断っちゃって、後から惜しがっても仕方ないじゃん」
代わりに由紀恵がキッチンから出てきて、生の春菊のサラダを恵の座る食卓に置いた。
「これ、春菊?」
「そう」
「春菊って、生で食べられるの?」
「うん。生のほうが栄養が溶けなくていいんだよ。春菊にはビタミンCとかカリウムとかたくさん含まれてるの」
「へえ。春菊って、鍋に入れるイメージしかなかった。苦くない?」
「苦くないよ。苦みが出るのは、加熱するからみたい」
「そうなんだ……。この歳になってもまだまだ知らないこと、あるのねえ」
恵は、サラダボウルから春菊を一枚つまんで口に入れ、「ホントだ苦くない。美味しい」と言った。
「美味しいよね。でも食べ過ぎると、お腹壊す人もいるらしいから、気をつけて。特に初めて生で食べるならなおさらね」
その後、三人での会食は進み、恵はしたたかに酔った。
酔いすぎて経緯を覚えていないのだが、ふと気づいたら、さっきから由紀恵がいない。
「由紀恵、何か買いに行ったんですか?」
「いや」
達也は残った料理を手際よくタッパーにまとめ、空いた皿を流しへ移動しながら答えた。
「でもいない気がする。ずっと」
「ああ……。たぶん、トイレかな?」
「トイレ? あ、飲みすぎ?」
「いや。たぶん、腹痛いんじゃないかな」
「お腹痛い?」
「うん。春菊、食い過ぎたんですよ」
まだらな記憶を携えて、恵は答えた。
「ああ……。なんかそんなこと、言ってた気がする」
「恵さんに注意しておいて自分が腹壊してちゃ、世話ないですよね」
「様子見に行かなくて、平気?」
「平気でしょう」
醒めた達也の声だった。
酔った勢いもあった。
テーブルを拭く布巾を受け取る時、その手が触れた。指を絡め、互いの視線が交差する。
恵はそっと目を閉じた。
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『デカローグ』第七話、いかがでしたでしょう。この作品は、ホテル暴風雨10周年記念企画「10」にちなんだ10話連作の物語です。ポーランドの巨匠・クシシェトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』リスペクト(くわしくは連載予告のエッセイを)。さて今回は十戒の第七、
7.姦淫:姦淫をしてはならない
にちなんだお話。飽きっぽい人というのは平時どちらかというと無感動というか、くるくると興味を持つもののその浅さや熱の低さが透けて見えてしまうというか。しかし変化とはエネルギーの要るもの。凝縮した情熱が爆発してスイッチが入る瞬間があるはずですよね、深夜の模様替えを始める時などに。見てみたいけどなかなか目にできないそんな瞬間をとらえた「ヤドカリの引っ越し」的ラストが鮮やかな一遍でした! デカローグも残すところあと3回となりました、次回もどうぞお楽しみに。
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