
他人について噓の証言をしてはならない
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桜子は、足取り重く教室を出た。陶芸教室からの帰り道。
親に呼び戻され、実家のある生まれ育ったこの町へUターンして、2年経った。
そのこと自体は、さほど嫌だったわけじゃない。桜子自身、東京での暮らしに、少し疲れていた。地元は楽だった。仕事も、家事も、誰かに任せておけばよかった。
でも、たったひとつ、心残りがあった。
陶芸だ。
東京で3年教室に通い、陶芸の面白さを分かり始めてきたところだった。
だから、こんな小さな町にも陶芸教室があると分かった時、喜んだのだ。
続けることができる、と。地方の田舎町には、陶芸教室はここしかなかった。
ここがいいとか悪いとか、そんなことを考慮する間もなく、桜子は入会した。
教室には、主宰する新田の他に、それより二回りほど若いアシスタントの葵がいた。
いかにも職人風の気難しさを漂わせる新田とは対照的に、葵はとても人当たりがよく、物静かで、周りをよく見ている人だった。
実質、教室を取り仕切っているのは、葵だった。
彼女は、教室の片隅で何かに戸惑う人がいると、さりげなく傍に行き「何かお手伝いできること、ありますか?」と声をかける。前に出過ぎず、誰に対しても丁寧に接し、献身的に新田に尽くす。教室の誰もが、葵を褒め、葵を敬い、葵に安心を覚えていた。
桜子も、最初はそうだった。
でもいつからか、その優しさや誠意の裏に、悪意を感じていた。
そう思う理由はあった。
例えば、桜子が成形した器だけ、いつも焼成されない。
教室の終わりに、成形した器を棚に戻すのは葵の仕事だった。
火入れの日に、その棚から新田が窯に器を並び入れる。
次に焼成される器の置き場所は、新田と葵で決めていた。
棚の奥に追いやられ、陰に隠れて焼かれるのを待つ自分の器を見て、場所が悪かったのだと桜子は思った。手前に置いてさえあれば、焼成前の器置き場にきちんと置かれてさえいれば、きっと忘れられることもないだろう、と。
だから、教室終わりに、生徒の作品を全て一人で棚に戻す葵に手伝うことを申し出た。
だが、いつものあの優しい笑顔で「自分の仕事だから」と断られたのだ。
次の教室で、葵は真っ赤な顔をして、いまにも切腹するかの如く悲愴な顔をして「ごめんなさい」と謝った。手には、素焼きもされないまま1か月放置され、全体にひびが入った桜子の器があった。
忘れてしまった、と彼女は言った。
その目にはうっすら涙が浮かび、真摯な謝罪に見えた。たぶん、その言葉に嘘はない。
でも桜子は、なんとなく違和感を覚えたのだ。
それが最初だった。それからも、そういうことは度々あった。
ある時は、無事に本焼きまで進んだと思って喜んだのも束の間、粉々になった作品に対峙することになった。葵は、いつものように〝この世の終わり〟のような表情を浮かべて陳謝した。
「つい、手元が滑って……。本当にごめんなさい」
いつも、葵の言葉に欺瞞はなかった。
桜子を騙して、わざと貶めようとしているのでもない。
まあ、そういうこともあるだろうと思った。
世の中には、タイミングや感覚が悉く噛み合わない人もいる。
悪気はない。巡り合わせの悪さなのだから。
でもその後も、そんなことが続いた。
新田の傘寿の祝いの会で、会場変更があったことを桜子だけが知らされず、一人不義理をしたような形になったこと。
何とか完成に辿り着いた桜子の作品を新田が気に入り、作品展に応募するよう言われたのに、その手続きを葵が怠り、出展できなかったこともあった。
新田からは「せっかく褒めてやったのに、出さないとは!」とひどく叱られ、もう少しで桜子は、教室を破門になるところだった。
あの時も、手続きにテンパる葵を見て、申し訳ないから自分ですると言った桜子に、「生徒さんの作品の応募も私の仕事だから」と言って、葵はやらせなかった。
そして、提出締切を過ぎた後に「ごめんなさい」と、いつもの涙目謝罪があったのだ。
そうした〝うっかり〟が誰に対しても行われるのなら、そういうパーソナリティなのだと思って諦めもつく。だが、その〝うっかり〟が、いつも桜子に対してのみ行われているような気がして、桜子は葵の心の奥に、自分への敵意のようなものがあることに気づいたのだ。
人は、理由なく人を好きになることを否定しないのに、理由なく人を嫌うことは否定する。
たぶんそれは、自分がたいした理由もなく、誰かに嫌われることを望まないからだ。
誰だって、理不尽に人から嫌われることなど想定していないし、実際そうなると何かしらの理由を探すものだ。それが腹落ちできるものであれば諦め、その人を避けるし、落ちなければ憎み、その人に詰め寄る。
どちらにしても幸せにはならない。だから否定する。
人にされて嫌なことは、人にしない。それがこの社会のルール。
そして、そういう思いは〝いい人〟であるほど強い。
彼らは、いい人ゆえに、理由なく人を嫌う自分を、認めることが絶対にできない。
だから、そういう自分を心の奥に追いやろうとする。
「そういうのって〝反動形成〟ってやつじゃないの?」
大学時代の友人で、東京で教育関係の仕事に就いている楓は言った。
「はんどうけいせい?」
「うん。今、通信制の大学で心理学の授業受けてるのよ、私」
「へえ、そうなんだ」
「仕事上、必要なのよ。そこで習ったの。ちょうど先週」
「そうなんだね。心理学かあ……」
「そう。人って、自分の心で受け止められないものを無意識に避けたり消したりして、自分の心を守るんだって。反動形成っていうのは、自分の心で受け止められない敵意や憎しみを心の奥に押しやって、それと反対の感情や思いを表に出すことで、なかったことにしちゃう、ってやつなんだって」
「へえ、なるほど……。なんか、穴熊みたいだね」
「……あなぐま? あの、レッサーパンダみたいなやつ?」
「違う」
「……あ、そっか。アラ……」
楓の次の言葉を封じるように、桜子が制した。
「アライグマでもない。タヌキでも、ハクビシンでも」
「えーっ!そうなんだ。でもみんな同じ仲間でしょ?」
「タヌキ以外はね。その他は、大きな括りでは一応どれも〝イタチ上科〟っていう区分には、入るらしいけど、レッサーパンダはレッサーパンダ科、アライグマはアライグマ科、アナグマはイタチ科。全部、別」
「へえ。よく知ってるね。さすが陶芸やってるだけある」
「……何で陶芸?」
「だって、陶芸と言えば、タヌキでしょう? で、タヌキは何科なの?」
桜子は、徳利を持った大きなおなかのタヌキを、頭に思い浮かべながら、答えた。
「タヌキはイヌ科。まあ、イタチ上科もイヌ科も、イヌ型亜目って区分ではあるんだけどね」
「ふーん。どっちもイヌなんだ。……あれ? もう一個いたような気がするけど」
「……あっ、ハクビシン忘れてた。あれだけはネコ科なんだよね。ジャコウネコ科」
「ジャコウネコって、糞が珈琲になるやつ?」
「そうそう。コピルアクね。って、なんでこんな話になってるのよ」
「桜子が言い出したんだよ」
「……うん、そうだった。いや、さっきの〝好き〟を囲いにして〝嫌い〟を守る戦略が、将棋の穴熊みたいだなって思ったわけよ」
「なんだ。そっちの穴熊」
「それは知ってるの?」
「知ってるわよ。王様を将棋盤の隅っこに置いて、周りを金とか銀の強い駒で固める作戦のことでしょ? 絶対王手にならないやつ」
「大体そんな感じ。なんかさ、好きって感情、強いじゃん。誰かに優しくされたり好意を示されたりしたら、その人に厳しく当たれないよね。そういう、攻められないのを良いことに、好きを駒にして、自分の嫌いを隠すなんて、盤石だなあって」
「そうやって負の感情を固めて、自分はいい人であり続ける、ってわけか」
「そう。でもさ、どうせ守るんなら、ちゃんと守ってほしい。滲み出したりしないで」
「確かに。出ちゃってるもんね、その人。桜子への敵意が。でもさ、仕方ないのよ。無意識は暴発するらしいから」
「そうなの?」
「みたいよ。だから、カウンセラーも医者も必要なわけで。もし完全に守れるんだったら、要らないじゃん。そんなの」
「まあね。でもホントに全く自覚ないのかな? ホントは大嫌いって思ってること」
「ないんじゃない? 自覚したら心が壊れちゃうから、それやってるわけで」
「そうなんだ……。別にいいのにね。皆を好きなんて、逆に嘘くさくて」
「わかる。でもさ、そういう人、いるよ。南ちゃんだね」
「南ちゃん?」
「タッチの南ちゃん。漫画の。皆に優しくて、誰からも好かれてて、好感度ハンパないの。そういう人はさ、誰かを嫌いでいる自分を受け入れられないんだよ」
「なるほどねえ……。一回訊いてみようかな。〝あなた、私のこと、嫌いだよね?〟って」
「やめときなって。〝なんでそんなこと、言うの?〟って逆ギレされたら嫌じゃん」
「あの人は、キレたりはしないと思う。むしろ、泣くんじゃないかな」
「南ちゃんはそうか……。で、桜子が〝いい人泣かせた悪い人〟になっちゃうってやつね」
「そうかも……」
「まあとにかく、関わんないほうがいいよ。やめちゃいなよ、そんな教室。と言っても、そこしか無いんだったら、そうもいかないか……。東京なら、いくらでもあるのにね。嫌なところはさっさと去って、別のところに行けるのに。東京戻っておいでよ。つまんないよ、桜子がいないと」
楓と電話で話した日の週末。
陶芸教室の有志が集まって、懇親会と称してボウリング大会が開催された。
悩んだ末に、陶芸の話ができるならと、桜子は参加した。葵もいた。
そしてそこでまた、隠された悪意が表出した。
桜子が投げる番になると、葵がリセットボタンを押すのだ。
一巡目は、桜子が投げていないことに周りの人たちも気づかず、そのまま次の人の順番になった。でも二巡目に同じことが起こった時、さすがに誰かが気づいて「まだ投げてないよね?投げなよ」と言ってくれた。
でも桜子は遠慮した。
なぜなら、今まで以上に〝この世の終わり感〟を出して、土下座しそうな勢いで平身低頭する葵がいたからだ。
目にうっすら涙をためて「ごめんなさい」を連呼する。
そのうち、「私なんかが取りまとめ役してるから」とか、関係ないことまで卑下して詫び始めた。周囲の人々は皆、「葵さんが取りまとめしてくれるから、みんな安心して楽しめるんですよ」と葵をひたすら励ます。
もはや桜子が順番を二回続けて飛ばされたことなど、どこかに行ってしまったかのように。
馬鹿らしくなった。
だから言った。
「葵さんって、私のこと嫌いですよね? 私、何かしましたか?」
そこからは、大変だった。
葵は予想通り、大粒の涙をぽたぽた流して「何でそんなこと言うんですか?わたしは、桜子さんに限らず、皆さんのこと、そんなふうに思うことはありません」と言った。
周りの人たちは皆、葵を援護して「葵さんが人を嫌うわけない」とか「偶々忘れただけなのに、寛容性が足りない」とか「ボウリングごときでそんなこと言うなんて、大人気ない」とか「投げたければ、私の順番を譲るから投げればいい」とか桜子を責めた。
挙句、「自分が葵さんを嫌ってるからって言いがかりをつけるな」とか「そういうこと、言うから嫌われるんだ」とまで罵られた。
だから、これまで葵との間に起こったことを全てぶちまけた。
何度も器を焼いてもらえなかったこと、やっと焼かれたのに割られたこと、大事な連絡を教えてもらえなかったこと、作品展への応募を失念されたこと。その他にもあった、様々な、明らかな悪意を。
でも、誰も信じなかった。
それどころか、「ありもしないことを、そうやってでっち上げて、人を貶めるのは良くない」と桜子批判が始まったのだ。
葵信者のあまりに強烈な物言いに、桜子は思い知らされた。
この教室における葵の力を。
何重にも擁護された城壁のその奥の本丸に、葵はまるで神のように鎮座している。
穴に入った熊は、神になっていた。
神を守る人垣の一番奥に、葵の黒い目が見えた。
そこには、思わずゾッとするほどの冷たい光が宿っていた。
嫌いなら堂々と嫌ってほしかった。
こんなやり方じゃなく。
人を嫌いだと思うことに、その自分のネガティブな思いに、ちゃんと責任を持って。
だって人は、理由なく人を嫌うものだから。それは何も悪いことなんかじゃない。
その場から逃げるように立ち去ると、桜子は、東京行の夜行バスに飛び乗った。
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『デカローグ』第八話、いかがでしたでしょう。この作品は、ホテル暴風雨10周年記念企画「10」にちなんだ10話連作の物語です。ポーランドの巨匠・クシシェトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』リスペクト(くわしくは連載予告のエッセイを)。さて今回は十戒の第九、
9.偽証:他人について噓の証言をしてはならない
にちなんだ、心底怖いお話でした。好意という嘘で取り囲み、隠した悪意。でもこの葵さん、主についているのは「自分について」の嘘。なので、十戒には抵触しないんでしょうか? あなたはこういう困った人についてどう思いますか。私は、こういう嘘などの迷惑な性向が他人の不幸と引き換えに自分を幸福にしている場合、まあそういうものか、と妙に納得できる(許せるかは別として)ことが多いのですが、このお話のように結局自分も不幸にしてないか? というケースには異様にモヤモヤします。人の心の複雑さへの恐怖なのでしょう。自分の心もごまかせていない、さりとて自分の評判を守りたいだけと思えないところが怖くないでしょうか? さて次回いよいよ最終話の第10回です。どうぞお楽しみに!
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