
他人の財産や配偶者をむやみに欲しがらない
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妃那がピアノのレッスンから帰って来ると、玄関に見慣れない靴が並んでいた。
リビングに入ろうとしたら、ドアの向こうから甲高い声が聞こえてきて、妃那は入るのをやめた。
仕方なく裏からそっとキッチンへ行き、麦茶をコップに注いで飲んだ。
使ったコップを洗わずに流しに置いて、再び裏から自分の部屋へ戻ろうとした時、母親のみどりと一緒に、その人が入ってきた。
「いいわねえ。このキッチンの照明。あらあ。テーブルも素敵。これ、フリッツハンセン?」
(いいわねオバサンだ。また来たんだ)
父親の林太郎とみどりと妃那の三人は、夏休みの直前に、高台にあるこの住宅地に引っ越してきた。
いいわねオバサンは、前に住んでいた社宅で一緒だった、林太郎の上司の奥さんだ。
オバサンちも、もうすぐどこかに家を買って引っ越しするらしい。
「家を建てる際の参考にしたいから」と言って、オバサンは妃那の家を何度か訪れていた。
何を見ても「いいわねえ」と感嘆し連発するので、妃那たちは密かに「いいわねオバサン」とあだ名をつけていた。
「いいわねえ。このシステムキッチン。これ、イタリア製かしら?」
「いえ。これはドイツです」
「あら、ドイツなの。いいわねえ。タイルも素敵」
確かこの間来た時も、キッチンでこんなやりとりをしていたような気がして、妃那は思わずみどりの顔を見た。
いつもの愛想笑いだ。目は笑っていない。
オバサンが帰った後のことを想像すると、妃那はちょっと怖くなった。
(こないだはオジサンと一緒だったけど、今日はオバサンだけなのかな?)
と思ったら、妃那の背中を小さな手が叩いた。
「おねえちゃん、また、あのお人形で遊ぼうよ」
いいわねオバサンの子どもだった。
妃那より四つ下の小学二年生で、琴子といった。
妃那は、琴子が苦手だった。
歳が少し離れているのもあって、社宅にいる時は遊んだことなどなかった。
琴子と遊んだのは、新しい家ができて、いいわねオバサンに連れられて琴子が来るようになってからだ。
あの日、みどりに連れられて2階に上がってきた琴子は、妃那の部屋でおもちゃ箱を勝手に開けると、中からめぼしいおもちゃを引っ張り出し、それで遊ぶことを強要した。
妃那のおもちゃを使うのに、遊びのルールは琴子が決める。
最初は、琴子は低学年だからと我慢した。
みどりからも「妃那のほうがお姉ちゃんなんだから、琴子ちゃんに優しくしなきゃダメよ」と言われていた。
でも、途中からなんだかモヤモヤし始めた。
まるで自分の持ち物のように、勝手気ままに扱う琴子に「それ、そんなふうにしないで」と言ったら、ものすごい目で睨まれた。
だから「返して」と言ったのだ。
そしたら大声で泣いて、いいわねオバサンのいる一階へ駆け下りて行った。程なくして、オバサンとみどりを伴って、琴子が戻ってきた。
「あらあ。ここが妃那ちゃんのお部屋なの。いいわねえ。可愛らしいお部屋だこと。琴子も新しくおうちができたら、こんなお部屋にしようね。いいわねえ。お人形もいっぱいだこと」
そう言うと、いいわねオバサンは、妃那のおもちゃ箱をちらりと見た。
その視線が合図だった。琴子が妃那のおもちゃ箱から人形を取り出し、言った。
「琴子ね、このお人形が大好きなの。だけど、お姉ちゃんが遊んじゃダメって」
琴子は殊更沈んだ表情で、上目遣いに大人を見た。
(遊んじゃダメなんて言っていない。ただ、雑に扱うな、と言っただけだ。それなのに……)
妃那は反論したい言葉を飲んで、俯いた。みどりが自分に加勢してくれることを祈って。
だけど祈り空しく、いいわねオバサン親子の圧に、みどりは屈した。
「妃那はもうお姉ちゃんなんだから、そんなお人形で遊ばないでしょう? 琴子ちゃんにあげたら?」
琴子の泣き顔がパーッと晴れやかな笑顔に変わり、誇らしげに妃那を見つめた。
3対1。圧倒的なアウェイ感。
(ママの裏切り者。あとで愚痴なんて、絶対聞いてあげないんだから)
大体いつも、いいわねオバサンが帰った後、みどりは荒れた。
「疲れた」と言い、食事の用意を放棄する。そしてそういう日に限って、林太郎が不在だったりする。
作れないなら外に食べに行けばいいのだけど、みどりはそれさえ億劫がるので、結局、妃那が何か適当に作らねばならなくなる。
妃那的には、自分で作らされるぐらいならカップラーメンでもいいのだが、みどりは栄養がどうとか言って、それを拒む。「なら、作ってよ!」と言いたいのをグッと我慢して、唯一の得意料理、きつね丼を作る。
きつね丼とは、親子丼の鶏肉のかわりに油揚げが入る代物で、これなら大抵いつも、材料が家にあるので、わざわざ買い物に行かなくても作れるのだった。
(今日はどんなに頼まれても、ごはんなんて、絶対作らない!)
妃那は無性に腹が立った。
(ていうか、何でこんな子のために、私が我慢しなきゃいけないの? ご飯だけでなく人形まで?!)
だから言った。
「いやっ。このお人形は、おばあちゃんからもらった妃那のお気に入りなの。まだ遊ぶし。そんなに欲しいなら、琴子ちゃんも、買ってもらったらいいじゃない」
琴子の顔以上に、いいわねオバサンの顔が歪み、赤く染まったのがわかった。
慌てたみどりが「子どもが我儘言ってすみません。でも、夫の母に買ってもらった人形なので、それはそれでなくなると、私も困るので……」と言い、いいわねオバサンに頭を下げた。
「琴子ちゃん、あとでパパに買ってもらいましょうね」
いいわねオバサンはそう言うと、泣きべそ顔の琴子の手を引き、階段を下りていった。
「本当にすみませんねえ」
と言いながら、みどりはそっと妃那の頭を撫で、オバサンの後を追うように一階へと向かった。
それが、たかだか1週間前の出来事だ。
にもかかわらず、琴子は今日もまた、あの人形で遊ぶことを求める。
何回遊んだところで、それが自分のものになることなど、決してないのに。
寧ろ遊べば遊ぶだけ、絶対に手に入らない事実に打ちのめされて、がっかりするだけなのに。
手に入らないものに執着し続けるなんて、妃那には理解できなかった。
「琴子ちゃんも来てたんだ」
「うん。お姉ちゃんが帰ってくるの、待ってたの」
「そうだったの。玄関に靴がなかったから、おばちゃんだけかと思ってた。今までどこにいたの?」
「お庭。ブランコで遊んでたの」
庭に、引っ越した記念に祖父が買ってくれた、一人乗りのブランコがあった。
引っ越した当初は、妃那もよく乗って遊んだけれど、最近はあまり使っていなかった。
「うちにブランコあるの、よく知ってたね」
「おばさんが教えてくれた」
「へえ」
妃那がブランコに乗らなくなったのは、それで遊ぶことに対して、みどりがあまりいい顔をしないからだ。
「もし土台が倒れたりして怪我したら大変じゃない」とみどりは言った。
みどりがそう言う度に、林太郎はちょっと顔を曇らせながら「平気だよ。父さんはちゃんとしてるよ」と反論した。
妃那は、二人が言い合う姿を見たくなかった。
妃那がブランコにさえ乗らなければ、そんな二人を見ないで済む。
そうしてそのブランコに乗るのを我慢していたら、そのうち、乗りたくなくなった。
(たぶんあのお人形も、あの子にあげちゃえば、遊びたくなくなるのかもしれないけど……)
妃那は一瞬そう思って手放すことを考えたが、やめた。
というか、冷静になって考えれば考えるほど、逆に段々腹が立ってきた。
(なんでお母さん、私には乗っちゃダメって言ったのに、あの子には乗るのを勧めたの?)
最初は、なんとなく気が進まないだけだったのに、どんどん嫌な気持ちが増してくる。
そのうち、琴子の顔を見るのも嫌になってきた。
「……ずるい」
思わず声が漏れた。
「何がずるいの?」
妃那の顔を覗き込む琴子と目が合った。ギョッとして目を逸らす。
「ううん。何でもない。それより、ホントにうちのお母さんが琴子ちゃんにブランコを勧めたの?」
「うん。ホントはね、琴子、お姉ちゃんのお部屋に入って遊びたかったんだけど、お姉ちゃんがいないからそれはダメだって、おばちゃんが言ったの」
「それはそうだね」
「どうして? お姉ちゃんいなくても、琴子、お姉ちゃんの人形で、一人で遊べるよ」
「私がいない時に私の部屋に入れるのは、私の家族だけ。琴子ちゃんは家族じゃないでしょ? だから勝手に入っちゃダメなんだよ、人の部屋に」
「そうなの?」
「そうなの。だからこれからも、勝手に入らないでね」
「えーっ。やだあ。琴子、お姉ちゃんのお部屋で遊びたい」
琴子は、思っていた以上に聞き分けが悪かった。
(小学二年生って、こんなだっけ? 私、もっとオトナだった気がするけど……)
こんなに頭が悪くて聞き分けのない琴子を、妃那がいない時に部屋に入れて、あの人形がなくなりでもしたら大変だ。
きっとみどりもそんなふうに思って、この子の気を逸らすものを必死で探したに違いない。それが、あのブランコだったということか。
でも、それこそもし、琴子がバカみたいにブランコを漕いで、あの時みどりが想像したようなことが起こったりしたら、みどりはどうしたのだろう。
(ママってば、ちょっと浅はか)
妃那はそんなことを思いながらも、怪我を負って泣きじゃくる琴子の姿を想像し、溜飲を下げた。手足から出血する琴子が、少し可愛そうにさえ思えた。だから、優しく訊いた。
「ブランコ、楽しかった?」
「うーん。楽しそうだと思ったけど、やっぱりブランコは公園のがいい。高いところまで漕げるし」
「そっか」
それを聞いて、妃那は少しホッとした。
さすがの琴子も、あのブランコで無茶をしようとは思わなかったのだろう。
想像の泣きべそ琴子が遠退いていき、現実の琴子が妃那の腕を掴んで言った。
「お姉ちゃん帰ってきたんだから、お部屋で遊ぼうよ」
「遊べない。私、ピアノの練習しなきゃいけないから」
咄嗟に答えた自分の言葉に、妃那自身が驚いていた。
(私、意地悪した。今)
ピアノの練習なんてしなくてもよかった。でももう、部屋に琴子を入れたくなかった。
「えーっ。じゃあ、琴子はどこで遊べばいいの?」
妃那はそれには答えずリビングに向かった。琴子は黙って後をついてきた。
ピアノの蓋を開けて、今日習ってきたのではなく、先月発表会で演奏した曲を弾いた。その音を聞きつけて、みどりがやって来て言った。
「あら、珍しいわね。帰って来てすぐ練習するなんて」
「直されたところ、弾かないと忘れちゃうから」
「でもそれ……」
みどりの言葉を遮るように、いいわねオバサンが言った。
「あらそれ、ショパンのワルツじゃない? おばさん、大好きなのよ。もう一回最初から弾いてくれないかしら?」
いいわねオバサンはリビングのソファに腰を下ろし、琴子を手招きして自分の隣に座らせた。
妃那は乞われるがまま、最初から弾いた。
「いいわねえ。やっぱりショパンは素敵ね。こんな曲を弾けるだなんて、妃那ちゃん、いいわねえ。琴子もピアノ習ってみる?」
いいわねオバサンは、傍らに座る琴子に問うた。すると琴子が言ったのだ。
「私、ピアノ習うんじゃなくて、ここんちの子になりたい。おばさん、私を妃那ちゃんの妹にして」
いいわねオバサンの顔がみるみる赤くなり、反対に、みどりの顔がみるみる青くなった。
妃那は「赤鬼と青鬼だ」と思った。
(作:大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『デカローグ』第十話、いかがでしたでしょう。この作品は、ホテル暴風雨10周年記念企画「10」にちなんだ10話連作の物語です。ポーランドの巨匠・クシシェトフ・キェシロフスキ監督の『デカローグ』リスペクト(くわしくは連載予告のエッセイを)。さて今回は最終話、十戒の第十、
10.むさぼり:他人の財産や配偶者をむやみに欲しがらない
にちなんだお話。タイトルの赤鬼青鬼って何だろうかと思いきや、そういうことか、と私はクスリと笑ってしまいましたがあなたはどう感じたでしょう。いいわねオバサンは妃那の家が本当に欲しいわけではなさそうですが、琴子は妃那の人形が本当に欲しそう。どちらかというと「十戒」でより戒められるのは後者なのでしょうが、赤鬼青鬼を生み出す元凶は前者の「ふんわりした欲しがり」な気がしてくるのが不思議。神は鬼なんかを戒めたりしないのか?
というわけで全十回のご愛読、ありがとうございました!
今日初めて読んだよという方、ようこそおいでくださいました。『デカローグ』の第1話はこちら。ぜひ全話、読んでみてください。
来週はエッセイ回。峰歩さんのポーランド語学習秘話、そして『デカローグ』の総括となります。どうぞお楽しみに。
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