仏さまは完璧にもほどがあるぐらいにオールマイティなお方じゃが、次の三つだけはできないとされておる。
- 縁のない人を助けられない。
- 全人類を救済し尽せない。
- 既に作られてしまった原因から結果が発生することを防げない。
三番目の「既に作られてしまった原因」というのは、要するに前世での実績の良し悪しのことじゃ。その報いがその後の人生において発現することは、仏や菩薩にも止められないなのじゃよ。顔かたちの美醜、資産の多寡、寿命の長短、生まれの貴賎。これらは全て、前世の行為の報いなのじゃ。
孔子よりちょっと後に生まれた中国の思想家である荘子(そうじ)はなかなか良いセンスの持ち主なのじゃが、惜しいことに上記のような違いが生まれることの理由にまで考えが及んでいない。人類の上に現れるあらゆる「差異」は、ただもう「自然」だからという一言で片付けてしまっておる。
仏教ではそうは考えない。ただ「結果」だけがある、ということがあるわけがない。必ずどこかに「原因」があるハズなのじゃ。
今「悪い結果」があるならば、過去のどこかに必ず「悪い原因」がある。今「良い原因」をたくさん作るようにすれば、未来に必ず「良い結果」が現れる。たったそれだけのことなのじゃが、世間の連中はといえば、既に現れてしまった「結果」を「結果」として受け入れることができず、「なんとかなりませんか・・・」などとうろたえるばかり。
まったく救いようのないアホウじゃとは思わんか?
例えば農家の人がいたとして、春先に田んぼを耕すこともせず、田植えもせず、水もやらなかったとする。さあ秋になって田んぼを見てみれば、落穂から生えた稲がちょろっとある程度で、ほとんど何の実りもない。その時になってから大慌てで水をかけてみたところで、最早どうにもならないのは当たり前のことじゃ。
挙句に何もない田んぼを漁りまわっては、「ちょっとは米があるんじゃないか?」などとムチャな期待をかけておる。
今どきの連中はもう、そんなのばっかりじゃ!
なんでそこで「ああ、やるべきときにサボっていたから収穫が無かったんだ・・・」と気づいて、次の年はそうならないようにしようとしないかなぁ。
お経の中には、「運命は変えられない!」とも、「運命は変えられる!」とも書かれておる。「仏も人の運命には手出しできない」ともな。
わけがわからんか? たとえばある人が物事の道理をちゃんと理解して反省し、しっかりと努力を続けたならば、どんなに重い運命であったとしても、必ず好転させることができるじゃろう。しかし、俗物根性まるだしで、「ああ、金がもうかりたい!」とか「長生きしたい!」とかいうレベルのお祈りを繰り返すばかりでは、何もならないことは言うまでもない。
そもそも仏さまたちの究極の願いはといえば、「全人類を救済したい」ということなのじゃ。もしも彼らが本当に「人の運命に手出しできる」とするならば、二千年近く経った今の世の中にこんなにバカタレどもが溢れておることの説明がつかんじゃろう?
―――――つづく
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