小説技法上のマジック(夏目漱石の『こころ』)

夏目漱石の『こころ』についてもう一度書く。読んでからだいぶ経ってしまったが、ようやく内容について。

百年前に書かれた超ベストセラーだ。ネタバレなど気にする必要はないと、個人的には考えている。(700万部を超え日本出版史上最高との説もある)
無論数の上では読んだことのない人の方が多いだろうが、それでもある程度の予備知識にはいやおうなく触れていると考えるのが自然であろう。
先生が○○すると知らない人がいるだろうか?
(いや、いる。もちろんいる)

はい、わかりました。書いておきますよ。

ネタバレ注意!

中学生で読んだときは、分析などしなかった。
ただただ熱情で読んだ。
今は違う。
冷静、客観的に見てしまう。
それによって失われた熱さは確実にあるのだけれど、ただそれによって生まれた熱さもまたあるようなのだ。

複数の視点から見れば、物事をより正確に把握できる。これは原則だ。
上から見たり下から見たり、それによって死角をなくせるし、立体視することもできる。
部分ではなく全体像が見える。

そのかわり、ぶれる、主観的な強さを失う恐れもある。

『こころ』は途中で主人公が変わる小説だ。
前半は「私」。後半は「先生」。
ふつう一人称小説でこういうことをすると、そこから世界ががらっと変わり、いかにも二つのパートをくっつけた印象になってしまう。
ところが『こころ』において漱石はその継ぎ目を消してしまった。

『こころ』は上・中・下に分かれている。
中の「両親と私」は東京行きの汽車に飛び乗った私が、先生からの長い手紙を読み始めるシーンで終わっている。
続いて、下の「先生と遺書」が始まるが、この章はまさに遺書そのもので、語り手の「私」は先生である。

読者はこの時点では主人公が変わったと感じない。
あくまで上・中の主人公である「私」の視点で、先生の遺書を読んでいくのだ。
無意識のうちに、いずれこの遺書が終わり、「私」の語りが戻ってくると信じながら。

戻ってこないのである。

遺書は長い。
この地上では数知れぬ死にゆく人々によって数知れぬ遺書が書かれてきたのだろうが、そのすべての中にもこれほど長いものがかつてあっただろうか、と思うくらい長い。
読者の心中にしずかに疑念が育まれていく。
本当に「私」の話に戻ってくるのだろうか?

戻ってこないのである。
残りページの少なさが紙の厚みで感じられる。
そしていよいよ先生の遺書が終わったとき、読者はそこに余白しか残されていないことを知る。

どこかで、主人公は変わったのだ。
紙の上ではなく、読者の心の中で。
ある一点ではなく、なだらかな傾斜のような移り変わりで。

読み始めの主人公は確かに「私」だった。
読み終わりの主人公は確かに「先生」だ。

これは小説技法上のマジックといえよう。

「私」が主人公の前半と「先生」が主人公の後半は、ほぼまったく同じ分量である。
このバランスさえ、マジックを成立させるための必然と考えるのは、わたしが漱石先生の術にすっかりはまっているからであろうか?

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