【 時間どろぼう魔談 】モモ(10)

【 はげしい追跡と、のんびりした逃亡 】

モモに重大な危険が迫っている。必死になってオンボロ自転車を転がし、モモの住む円形劇場に戻ってきたベッポ。しかしモモはすでにいない。しかも大勢の人間がそこにやってきたらしい。モモの部屋を荒らした形跡もある。
「すでに遅し!」とベッポが愕然としたのは当然だろう。モモはすでに拉致されたと判断したのも無理もない。彼は応援を求めてジジのところに走った。

ベッポから一部始終を聞かされて愕然とするジジ。この青年は自分が編み出した即興物語にそって現実を動かしていくのが得意な男だが、もうこうなってくると、物語は彼の手を離れて進行している。しかも彼が編み出す物語よりも、はるかに深刻な事態となって自分にのしかかっている。

「すぐにモモを救い出さないと!」とあせるベッポ。ジジはとりあえずなだめはするものの、どのように対処したらいいのかさっぱりわからない。そのあげく「モモがいないのはただ散歩に出かけているだけかもしれない」と言い出し、さらに「数日間ほっておいて様子を見れば、なにもかも以前のように元どおりになるさ」といった救いがたい楽観を持ち出す。
「……ああ、ダメだコイツは」といった絶望感を抱いたのは私だけではあるまい。

この部分はなかなかシビアな展開だ。ジジとベッポには対抗策もなければ組織力もない。ゴミの集積山を埋め尽くすほど多数いる灰色紳士たちの非情冷酷な裁判を、ベッポと読者はすでに見ている。彼らを骨の髄まで支配している恐怖政治をまざまざと見ている。「葉巻とカバンを取り上げられて消滅」というのはいかにも児童文学的なシーンだが、要するに死刑である。軍法会議の直後に銃殺されるようなものだ。

かくして無力な上に全く戦力とならないジジとベッポは話題から外れ、「灰色紳士たちの必至の追跡 vs 牛歩ならぬ亀歩モモ」にスポットは当てられる。灰色紳士たちの組織だった追跡に比べて、裸足のモモは逃亡という意識さえない。モモはただ大きな亀の後をついて歩いているだけだ。にもかかわらず、灰色紳士たちはモモを捕えることができない。

この、普通ではまずありえない追跡劇は若干の滑稽感を帯びている。
私は35年ほど前に観た映画「モモ」をもう一度観ようとしてまだ観ていないのだが(それには理由があり、その理由は後に述べたい)、映画のシーンを連想するならば、こんなシーンではないだろうか。
亀とモモが歩いている。彼らはある曲がり角で(亀の誘導により)、フイッと横道に曲がる。その直後、殺気だった灰色紳士たちの車が数台、バロローッと轟音を響かせて道を直進していく。

こうなるともう、読者の関心はこの「謎の亀」に移っていく。「この亀は何者だ?」といった興味に移行していく。モモにとってただひとつの活路は、この亀でしかない。この物語をグイグイと牽引していくのは主人公のモモではなく、ジジとベッポでもなく、新たに登場した亀なのだ。エンデがいかに「亀好き」かという点が見事に生かされた章だと言えよう。

余談。
じつはこの機会に映画「モモ」(1986年/西ドイツ・イタリア)を観ようと思ったのだが、「エンデ・河合隼雄」対談を読んで、エンデが映画「モモ」に対してかなり不満を持っていることを知り、観る気が失せて(笑)しまった。
「映画では。時間の国の場面は失敗でした」とエンデははっきりと語っている。どう「失敗だった」と彼は思っているのか、「時間の国」が出てきた時点でまた詳しく語りたい。

【 つづく 】


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