みなさまこんにちは。
こちらは、ホテル暴風雨・雨オーナーこと斎藤雨梟が、電子書籍「プロの絵本作り」(1)(2)刊行を記念して、電子書籍について書くシリーズの4回目です。
(1)~(3)はこちら↓
(1)電子書籍とは何か。どこで入手してどうやって読めるのか
(2)電子書籍の一般読者にとってのメリット・デメリット
(3)作り手にとって、「読書」文化にとってなど、一般読者以外の視点で見た電子書籍
今回は、紙書籍と電子書籍のこれからについて考えてみます。一般に予測されているように電子書籍が主流になるのか、逆に普及せず廃れるのか。紙書籍と電子書籍は一方が勢力を広げれば一方が縮小する関係なのか、並立するのか、などについての個人的見解です。
情報媒体の寿命
電子書籍と紙書籍はこれからどうなる? と考えると、では一般に主流となる「情報伝達の形」の寿命とはどれくらいなんだろう? それは何を原因として終焉をむかえるのだろう? ということが気になります。
情報の伝達といえば、口伝とか狼煙とか太鼓とか「ライブ」的なものからスタートした後、「文字」の誕生でその効率を飛躍的に上げたことでしょう。文字を刻む媒体としては、粘土板、パピルス、羊皮紙、木簡、紙などが使われてきました。「印刷技術」の登場も情報伝達にとっては大きな出来事。もちろん文字だけではなく、音や映像の情報を伝える手段も発展してきました。
今注目したいのは、新しいものが登場した際、古いものが滅びたのか、存続したのかということ。そしてそれぞれの理由です。
「口伝」つまり「直接人に聞く」「話す」という古い伝達方法は、情報伝達全体で占める割合はもはや大きくはないでしょうが、まだ滅びてはいませんし、今後滅びるとも思えません。コミュニケーション手段として最も手軽で簡単。脳内情報を直接伝える機器ができたとしても、「会話」がなくなることはないのでは? と、どちらかというと用がないなら黙っていたいたちである私ですら思います。伝達が簡単で、それ自体に魅力があるものは滅びない。
一方、ほとんど使われていない例として「粘土板」をあげます。といっても私は情報を伝えるのに粘土板を使用した経験はなく、博物館で眺めて「こういうのを使ってたのか、案外便利かも」と感心した程度のものなので、フェアな判定はできません。身近な材料で作れる、比較的軽く破損しにくいなど良い点はあったでしょうが、思うにあれは、作るのにも彫るのにも手間がかかり、かさばって持ち運びが大変です。古い文明とともに滅びなかったとしても、いずれ「紙」が登場すれば、取って代わられたと思われます。つまり、新しいものに比べ手間がかかり伝達できる内容は同じ(または少ない)など、新しい方が「上位互換」的に優れているとされると、滅びる。
改めて書くと当たり前過ぎて恥ずかしくなるほどです。
要は、果たして電子書籍は紙書籍の上位互換(それまであった古いものの機能を全て持った上で新しい機能も加わったもの、という意味で使っています)なのか? が今後を決めるポイントなのでしょう。
紙書籍と電子書籍のこれから
私は「読書」をすることが大好きで、その体験の楽しみを最大化させてくれるから紙の本が大好きなのですが、一覧性に優れる、見た目や手触りの良さ、だけでない紙書籍ならではの本当の魅力を、どうも言語化できていないもどかしさがあります。
現在、世界的に見て電子書籍主流化の流れがあるのは間違いありませんが、私なりの結論を言えば、電子書籍は「紙書籍の上位互換」には至っておらず、短い期間で紙書籍が衰退し電子書籍ばかりになることはないと思われます。
しかし、その寿命が50年なのか100年なのかはまだわかりません。さしあたり、「電子書籍が紙書籍の上位互換ではない」というのが、紙書籍で育った世代特有の感じ方なのかどうかが大問題です。
例えば、まったく同じ文章でも、PCやスマートフォンの画面で読んだ場合と紙で読んだ場合では紙の方がよく頭に入る(脳への定着度が良い)という実験があるそうで、私は「それはそうだろう」と深く納得できます。が、それは私が紙の本に慣れ親しんでいて、画面から情報を得る能力が不足しているせいかもしれません。
紙の本が大好きで、何となく嫌だから電子を避けて紙を買ったり読んだりしているという方に特に、電子書籍も読んで、その良いところも体験した上で、しつこく、よくよく比べてぜひ何か発見してほしい、と私は思います。
なぜなら、紙書籍への説明し難い愛着と新参者への反感、などぼんやりした理由で電子書籍を排除していては、紙書籍世代の死滅とともに紙の本は博物館行きだからです。
紙書籍という「文化を守る」という立場だけから電子書籍を排除していても同様です。守るべき「文化」が単なる既得権の言い換えであったり、結局のところノスタルジーに過ぎなければまったく勝ち目がない。良くて日本国内だけは紙書籍の牙城を守ったとして、海外のコンテンツが、進化した機械翻訳でシームレスに広がる時代にそれでは、紙書籍は日本語という文化ごと消滅することになりかねません。伝統を守るなどと言い出したら、いや粘土板の方が古いだとか、日本人なら木簡か巻物だろうとかの方が理屈の上では優位ですし、そんな少数派の言い分がギャグに聞こえている間はいいとして、遠からず紙書籍派も前時代ギャグになってしまう。
紙書籍世代の死とともに紙の本が滅びても、自分の生きている間だけあればいい、という考え方もあるかと思います。
私はただ自分の楽しみを保持したいだけなので、正直それでもいいです。進化した電子書籍の読書体験が紙のそれを超える日が来れば宗旨替えする可能性すらあります。が、実際に紙書籍の方が電子書籍よりも情報伝達に優れた点があり、それが被験者が誰であっても、何度でも検証可能な事実であるにも関わらず、きちんと言語化し、定式化されることなく紙書籍が滅んでしまうならば、もったいない話だとは思います。
蒸気機関や電気の発明で滅んだものは多かったでしょうし、その後もたくさんの栄枯盛衰がありました。テレビ出現後の映画。CD出現後のレコード。iPodやデータ配信出現後のCD。ネット配信出現後のDVD。携帯電話出現後の固定電話に、スマートフォン出現後のガラケー。カセットテープ、MD、ポケベル、PHSなど、大きな変化のはざかいに存在したものもありました。
もうすっかり見なくなったり、マニアやコレクター向けの一種の贅沢品として残っているもの、まだまだ需要があり現役のもの、考えてみると様々です。残るものには、新しいものにはない、ノスタルジーに頼らない魅力や有用性があるのでしょう。
紙書籍と電子書籍、違う進化の可能性
紙書籍は、コレクター向けの豪華本、インテリアにもなるようなプレゼント向けの美麗な本、などの分野ではおそらく残るでしょう。ですが私は本当ならば、何度も読み返し自分の血肉としたい本を、簡素な造本の、手の中に入る文庫本のようなフォーマットで持っていたい。
そういうシンプルな紙書籍の「効能」が(私にとっては確かにあるのですが)科学的に証明されれないものかと期待しているところです。
思うに、「読めればいい、情報だけ得られればいい」場合でも、読者にとって紙と電子の間に何かまだ根本的な違いがあるように思います。それは「情報」の種類にも依存し、単語の意味や美味しいお店の情報ならばきっとどっちでもいい。が、「純粋な精神の楽しみとしての読書」で、しかも「本の物体としての美しさや所有欲を満たすことは別に求めない」場合であっても、紙書籍に何かしらアドバンテージがあり、それを捕捉しきれていない気がしてなりません。
捕捉しきれていないですが諦めずに捕捉したいのです。ついでに、電子書籍も紙書籍の代替としてでなく進化して欲しい。
電子書籍は間違いなく紙書籍の子孫ですが、電子データになった時点で、本当は「本」のフォーマットに縛られる必要はありません。自動車が発明された当初のこと、まだ「馬車に取ってかわれるほど便利なはずがない」と疑われながら、蒸気式・電気式・ガソリンエンジン式など動力も様々、形も様々な自動車が多数作られていたそうですが(その後ガソリンが主流となった)、現在の電子書籍のワンパターンを見るに、まだ電子書籍の黎明が始まっていないのかとさえ思われます。今後、現在の紙書籍よりダイレクトに脳に響く別の方式や、VRで紙書籍の手触りまでもが再現される方向など、多様な可能性があります。ダイレクト方式ならば、紙書籍はまったく違うアプローチの媒体として活路があるかもしれませんし、VR方式ならばその「オリジナル」として価値を保てます。電子書籍が舵を切る方向が、紙書籍の生き残りにとっても非常に重要な鍵となるのは確実で、180度違う方向へ行くべきか、120度くらいが適正かはわかりませんが、どちらも末端でコントロールするのは読者です。私もコントロールする気満々で待ち構えているというわけです。
現代の世の中は「モノより経験を得たい」という欲求が際立ってきていると思います。となると問われるのが経験の質で、読書や映画、ゲームなどが、リアルな経験の単なる代替ではなく別系統の経験であり文化となったように、電子書籍もまた独立した文化となるようでなくては後世に残らないでしょう。そのためには、「進化の大爆発」的な百花繚乱が実現されることで初めて、電子書籍そのもの、そして「リアルな経験以外のことを体験する」タイプの文化が新しい光を得ると思われ、大爆発はまだ来ていないようです。
私はそういうタイプの楽しみの中で「(紙書籍の)読書」を一番としてきましたし今後しばらく変わらないでしょうが、大爆発とその後の進化には非常に興味を持つものです。
紙書籍、それに良き読書文化の存続のため、書店で紙書籍を買う、出版社や印刷会社・作家を応援する、などは全部有効だと思います。一方、文字を読むというコンテンツ全体の行く方向をよく観察し、その中での紙書籍の立ち位置を客観的に(むしろ電子書籍大好き、紙なんかいらんという立場の人ならどう考えるか? くらいに)見ることも有効でしょう。それに、これから人口の減る日本で、ほとんどの業界が業態を変化させている中、何をすればどんな未来に還元されるのか? はかなりわかりにくいことになっていますが、電子書籍を買うことは、少なくとも作家(コンテンツの作り手)に還元される点で、読書文化存続に貢献する行為です。私は、自主制作電子書籍で面白い作品を発表する作家、電子書籍ならではの表現を追求している作家、電子書籍でよみがえったパブリックドメインなど古い本、を探して、見つけて、人にすすめたりこのサイトで紹介したいですし、それが「紙の本にもなる」べきなのかどうか、実際なった場合、吉と出たか凶と出たか、その本ごとの事例をできるだけ観察したい、などと考えています。
最後に、ページトップの絵は、ホテル暴風雨の横断レビュー企画「暴風雨サロン」の「ホテル文学」の回に、『秋のホテル』(アニタ・ブルックナー著)『誰もいないホテルにで』(ペーター・シュタム著)の二作について書いた時のタイトル絵です。灯台の浮き出た本を読んでいるのはホテル暴風雨総支配人テンペストさんとコンシェルジュ兼図書館司書バベルさん。後ろでのぞいているのは、浅羽容子作『シメさばケロ美の小冒険』に登場する「ダイスくん」です。ホテル暴風雨に修学旅行に来ていたのでした。
こんな風に立体映像が浮かび上がってくる本は、コストを度外視すれば現在の技術で十分に作れるものなのでしょう。条件をクリアするとボーナスステージに入るゲームのように、読者の読み方や気分が影響して立体映像がだんだん変わるものなどができたら面白いです。
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