一つ目の〝潮時〟の主人公、さおりは山を愛する登山ガイドでしたが、皆さんはアウトドア派ですか?
そう尋ねて、ふと気づきました。
世の中に「私、インドア派だから」と自分をアピールするシチュエーションは多々あれど、「私、アウトドア派」という表現はあまり聞かないような気がします。
意外とワイルドさを醸し出すためのワードにもなりそうなものだけど、少なくとも私の周りでは、あまり聞いたことがありません。
私の周りにいるアウトドア志向の人は押しなべて〝山ヤ(注)〟であるという自覚が強く、彼らは自分を〝アウトドア派〟とは断じて称しません。それは〝ワンゲル〟という言葉を避けて、頑なに〝登山部〟と称する現象とも通じているような気もします。
でもそれは、彼らが単にカタカナ言葉を拒否しているというわけでもないのです。
現に、ザックのことは背嚢もしくは背負子とは呼ばないし、単に上着と呼べばいいだけなのにわざわざヤッケと言ってみたりする。
他にも、保温できる水筒のことをテルモス(正式名称はサーモスですよね)、鍋のことをコッヘル、綱のことをザイル、寝袋のことをシュラフ、杖のことをストック、氷河に削られた谷のことをカール……と、挙げだすと枚挙にいとまがありません。
日本の登山文化は、ドイツ人から多分に影響を受けているので、登山用語の多くに今なおドイツ語もしくはドイツ読みが残っています。先ほど挙げたものも、例えばコッヘルより「ポット(もしくはパン)」、ザイルより「ロープ」のように、英語表記のほうがもはや一般的だったりしても、山では頑なにドイツ語を使い続けます。
そして、いつしかそれは最初から日本にあった言葉のように馴染み、もはやドイツ語だったことさえ忘れてしまいそうです。「リュックサック」などは、まさにそうなのではないでしょうか。
私などは、かつての山ヤである父が、上着のことを頑なに「ヤッケ」と呼ぶのを聞いて育ったので、今でも、何気なくついその言葉が口を衝いて出てくることさえある始末ですが、山登りを趣味とするまで、まさかそれがドイツ語だとは思っていませんでした。父の地元の信濃地方の方言だと思っていました。
一口に「アウトドア」と言っても、人によってイメージするものは多様です。
多くは、キャンプやピクニック、バーベキュー、釣りやハイキングや登山といった「ドアの外」つまりは〝自然を求めて出かける行為全般〟を連想するのだと思いますが、山ヤの場合、ちょっと違うのかもしれません。おそらくそこに、登山は入ってこない。
「なぜ山を登るのか?」と問われて「そこに山があるからだ」と答えた、イギリス人登山家のジョージ・マロリーの言葉はあまりにも有名だけど、山ヤにとって山を登ることは、アウトドアという括りでは捉えられない、もっと気迫のこもった、熱く強い意志を伴う〝何か〟なのかもしれない。
事実、山ヤを自称する家族に言わせると、アウトドアの括りにざっくりと収められがちな〝ピクニック〟および〝ハイキング〟と〝登山〟には、明確な差異があるようです。何が違うのかを問うと一言、「強度だ」と。
言われてみると、若干山登りを齧った私でさえ、ピクニックと登山は明らかに違うと思うし、その差は強度(難易度や体力消耗度、求められる技術力、経験値などが高いということ)だとわかります。
強度的に小さい順に並んでもらうと、ピクニック < ハイキング < 登山 となるわけです。
こんな感じでしょうか。
ハイキングと登山の差については、強度の他に〝お気楽度〟みたいなものの違いも、含まれているように感じます。
残雪期の穂高縦走のことを「ハイキングに行ってくる」とは絶対に言わないし、登山口まで電車で行けて、その先もロープウェイやリフトで登れる高尾山に行く時に、「登山してくる」とはあまり言わないのでは?(そう口にしたら、ちょっと気恥ずかしくなるのでは?)
たぶん、その違いです。
そう考えてみると、「アウトドア」という言葉には、ほんの少しの〝軽さ〟みたいなものが含まれるのかもしれません。
確かに、アウトドアの代表格「釣り」というのも、マグロ船に乗るとか大間のマグロの一本釣
りのような〝本気の漁〟みたいなのは含まれないですもんね。
だから、自分が外向きか内向きかを伝えるのに、かるーく外向きである「アウトドア派」という表現は使われにくい、ということなのでしょう。まあ、誰だって自分が軽く薄っぺらな人間だと思われたいわけではないでしょうし。時には、軽さをアピールすることもあるのでしょうが。
で、この山登りにおける〝強度〟や〝軽さ〟問題をきちんと把握しておくことは、その山行(山登りの行程のこと)が吉となるか凶となるかの大きな分かれ目にもなります。
断言します。
そこの擦り合わせがうまくいっていない人と山に登ることは、本当に、ただの苦行にしかならない。お互いに。
普段山登りをしない人でも、おそらく、ピクニックと登山の違いくらいは直感的にわかるかもしれません。
でも、ハイキングと登山の違いはどうでしょう? それこそ、先述のワンゲルと登山部の違いみたいなものだと思っておられるのかもしれません。
でも、ハイキングと登山は違うのです。その違いを知らずに「登山に行く?」と訊かれて、脳内で勝手に「ハイキングに行く?」と変換し、二つ返事で応じたところ、とんでもない目に遭った、という被害者は、意外と少なくないのです。
事実、それで二度と山登りをしなくなったという人は多いです。でも不思議なことに〝とんでもない目に遭った〟のに、なぜかその後、山にはまる人もいる。
私が山に登るようになったのは、そういう経緯があったわけではないけれども、山を登りながらいつも思います。
「なんでこんな苦しい思いをしてるんだ」と。
自分を虐めるものは、たとえそれが自分であったとしても憎いのに。脳内のイメージがハイキングのままで止まっているにもかかわらず、リアルな行程では強度を上げているから?
テント泊縦走の時などは、20キロ弱の荷物を背負い(多すぎるんです。わかってます。いつも注意されます)、足場の悪い急坂を、自分の汗で雨のように地面を濡らしながら歩く。
登っている最中は、綺麗な景色が見えるわけでも、美味しい珈琲が喉を潤すわけでも、心地良い風に包まれているわけでもない。たまーに、微風が毛穴に浮かぶ汗を空気に飛ばしてくれたりもするけれど、その道中のほとんどは、ただただ辛い。稜線に上がれば少しは気分も上がるけど、それでも山の上は真っ平なんてこと、絶対にないし。登ったからには必ずその分下りなきゃいけないのも、知ってるし。
だから、通りすがりの知らないおばさまの「あらあ。大きな荷物背負ってるのねえ。頑張り屋さんね」という気まぐれ発言にさえ、涙が零れ落ちそうになったりする。
そして思う。「どうして?」と。どうして私はわざわざこんな辛い思いをしに来ているのだろう、と。
きっと件の〝うっかり脳内変換による災難〟に見舞われているハイカーも、登山している間中、同じようなことを考えているのではないでしょうか。
「なんで?どうして?こんなことに」と問い続けているのです。
何かが起こった時、人はその原因を知りたくなる。
事件や事故の報道を目にする度、何か問題が起こった時、その理由を知ろうとして、私たちは問う。「なぜ?」と。
このような、物事の因果関係を推理し、納得したいと思う人の心理過程を『(原因)帰属』と言います。これについては、『心を紡いで言葉にすれば』第15回:なんでそうなるの? でも少し説明しました。
その時にも記しましたが、帰属に関しては、いくつかのことが分かっています。
①自分の身に起こったことに対しては、人は、自分の外側に理由を置きたがるのに対し、他者の身に起こったことに対しては、その人の内面に理由を求めたがる
②その一方で、自分の身に起こった〝良いこと〟については、能力や努力などの自分の内側に理由を見出そうとし、自分の身に起こった〝悪いこと〟については、運や状況や他者などの自分の外側に理由を見出そうとする
③例えば天気や運のような、自分の力でコントロールすることができないような事柄にさえ、自分の力でコントロールできると錯覚する
④他者の身に起こった悪い出来事の理由を、実際以上にその人の内面に見出そうとする
これ、全部山ではあるあるです。
自分が遭難しかかかった時には、「同行者がへぼった」と誰かのせいにしたり、「道がわかりにくかった」と難癖をつけたりするのに、誰かが遭難しかかった時には「能力がないからだ」とか「注意力が足りないからだ」とその人のせいにする。
急な天候の変化などで、行程を変更せざるを得ない時、たまたま結果オーライでうまくいった時には「経験値の違いだ」とか「正しい選択ができた俺すごい!」と自分の手柄にするのに対し、うまくいかなかった時には「天気のせいだ」とか「運が悪かった」というように自分以外のものに原因を押し付ける。
そもそも天気はコントロールすることなんてできない。山で好天が続いたのは、ちゃんと気象を見極め、そういうタイミングを狙ってきたからなのに「私、晴れ男(女)だから」と嘯く。
遭難した誰かに対して、その人の技量も計画も装備も何も知らないうちに、「初心者がそんな山に行くからだ」とか「どうせまともな装備をしていないだろう」と決めつけて、遭難という不運を過剰にその人自身のせいにする。
ある結果をもたらすのにはおそらく無数の理由が存在し、それらが相互関連することによって一つの結果が生じるものだけど、私たちは、そのうちのどこかにだけ理由を求めようとします。そうすることで、モヤモヤが晴れたり、問題点を明らかにしたり、次また同様の事例が生じた時の対応策にできるからです。全部の理由を一度に制御するのは実質的に不可能、というのもあるのでしょう。
そのために私たちは、原因の追究について次の3点から検証しようとします。
①実体についての検証:その結果をもたらしたのは、それ自体の効果なのか(弁別性の有無)
②人についての検証:その結果をもたらしたのは、その人ならではの効果なのか(合意性の有無)
③時/様態についての検証:その結果をもたらしたのは、その状況ゆえの効果なのか(一貫性の有無)
このうちのどれがその原因になり得るのかは「それによってその事象が生じる時に存在し、生じない時には存在しない」という〝共変原理〟によって決まると考えられます。これを帰属理論における『共変(ANOVA)モデル』と言います。
例えば、私がなぜ山に登るのかについて考える時、まず私は、山登りが他の様々な行動と比べて特別なものなのかを考えます。つまり、山登りという行為の「実体」について、それが他の行為との弁別があるのかについて検証するのです。
映画鑑賞や研究、鉄道旅、糸を紡ぎ布を織ること、文章を綴ること、ブブと遊ぶことと比べて、山を登ることは、私に特別な喜びをもたらしてくれるのかを考える。もし山登りに他では得難い喜びや満足があるとするならば、おそらく私にとって山登りは特別な行為であり、それ自体が、私をして山登りをさせる理由になる。
もし「いや。そうでもないな」と思ったのならば、次に私は「人」の効果、つまり私だけが山登りを楽しんでいるのかについて考えます。つまり、他の人たちが山登りにどのような印象を持っているのかという、私との合意性を探ろうとするのです。
もし周りにいるのが「よく山登りなんてするねえ。私はごめんだわ」と思う人ばかりだとすれば、山に行くのは、私の性格とか嗜好、つまり私という人そのものに原因があるけれども、他の人も私同様もしくはそれ以上に山登りを楽しんでいるのであれば、「山に行くのは私が変わっているから」という理由にならない。実際に、毎年夏山登山のシーズンになると、登山口までの夜行バスの切符が入手できないくらいなのだから、山好きはたくさんいるわけです。
そこで最後に私は、その山登りが生じた時の「状況(時/様態)」について考えます。つまり、あの山で感じたあの喜びは、お天気だったからだとか、人が少なくてせいせいしてたとか、美しい景色が見れたとか、素敵な出会いがあったとか、そういう状況の要因による影響がどれくらいあったからなのかについて検証します。
もしその時の山行が、晴天に恵まれ、素晴らしい景色が見れて、同行者が楽しい人で、可愛い生き物に出会えたとしたならば、私はその時覚えた感動を再び味わいたくなって、また山に登るかもしれない。でもそうじゃなくて、始終雨ばかりで、寒くて、不快で、同行者も機嫌が悪くて、雨の日こそ見れるはずの雷鳥にも会えなかったとしたら、もう二度と山には行きたくないと思うかもしれない。運や状況が山登りをするかしないかの理由になる。
そういうものがあろうとなかろうと、再びの山行では同じように感じるのか、そこに一貫性はあるかについて考える。そしてもしあるのだとしたら、つまり誰と一緒に登っていようが、天気がどうだろうが、雷鳥に会えようが会えまいが、この山に登るのは楽しいなあと思えるのであれば、また登りたくなるし、やっぱり楽しくないわと思えるのであれば登らない。
そういうものなのかもしれません。
おそらく〝とんでもない目に遭った〟のにも関わらず山にはまった人は、自ら山を登り続ける理由をあれこれ考えるのでしょう。
そこには、『心を紡いで言葉にすれば』第4回:嘘の海で泳いでみたら で紹介した『認知的不協和理論』による、態度変容のプロセスも影響を及ぼしていると思われます。
「自分で行くと快諾して登って下りたのだから楽しかったのだ」という思い込みによる暗示の効果ですね。
でもそれとは別に、帰属のプロセスも作動する。共変原理に沿って検証するのです。
今回は、たまたまレベルの違いすぎる人と一緒に登ったから辛かったけれど、別の人と別のタイミングで登ったら違うかもしれない(一貫性についての検証)。
だって、みんな「この山はいいよ」って言うもん。「登山は楽しい」って。きっと今度こそ、楽しい気持ちになるかもしれない(合意性についての検証)。
なにより、山に登った時の充足感は、他のことではなかなか得られなかった。大変な思いをして登ってこその、あの景色の素晴らしさやあの珈琲の美味しさなのだと思う(弁別性についての検証)。
そして思うのです。
もう一度、今度は別の人と最善のタイミングでもう一度登ってみよう。もしまた楽しくないと感じたら、今度は別の山にも。それでもダメなら一人で。
そうやって、人は山にどんどんはまっていくのかもしれません。
登った事実に理由を求めるから、人は山に登る。そこに山がある限り、人は山に登り続ける。
だからこそ、最初に登った人はすごい。
あるから登る。ただそれだけ。
その飽くなき探求心というかチャレンジ精神には、ただひたすらに感服するしかないのです。そういう意味では、初めてウニを食べた人もすごいけど。
次からはまた、別の〝潮時〟が描かれます。今度は少し短めのお話です。お楽しみいただけると幸いです。
(注)山ヤっていったい何?という問いに明確な答えを得たことはないのだけど、おそらく、それなりの経験と知識を持ち合わせ、体力と持久力を兼ね備えた、自称〝登山家〟ということだと思います。それは決して、プロとしての登山家に限らず、サンデードライバーの如く〝サンデー登山家〟も多分に含まれるわけですが。
(by 大日向峰歩)
*編集後記* by ホテル暴風雨オーナー雨こと 斎藤雨梟
大日向峰歩作『心を紡いで言葉にすれば』第18回、いかがでしたでしょう。「アウトドア好き」と自称する人、私はわりと見かけますが、アウトドア傾向が「広く浅い(多趣味で色々少しずつやりたい人)」または「広く深い(むしろ野外が家くらいの野生児)」、つまり魚釣りと狩猟とサイクリングとキャンプと山菜採りとクライミングとマリンスポーツと……等々「広い」人が言いがちな気がします。趣味や傾向を自ら言い表す言葉が醸し出す独特の感じ、難しいけれど面白いですね。みなさんは何派・何好きまたは何ヤですか? そしてそれはなぜと分析しますか? 私は基本インドア派ですがハイキングは好きです。理由は歩きたいけれど人混みが苦手だから……かな? 最後に登った山は物見山(標高375m)と日和田山(標高305m)。苦しいほどの登山は未経験。さて次回は『潮時』の続き、新エピソードが始まります。どうぞお楽しみに。
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