このところ魔談は愛欲テーマを追いかけている。愛欲と言えば谷崎潤一郎でしょうということで小説「痴人の愛」のストーリー展開を語りつつ、この小説を読んでいて個人的に思い出したことも語っている。
まあ先を急ぐ話題でもなし、今回は私の思い出話につきあっていただきたい。
【 K K 】
広告代理店勤務のAD(アートディレクター)として仕事していた時代、会社の同僚でコピーライターとして勤務している男がいた。彼を仮にKKとしよう。KKは私よりも2歳年上で、背が低く、ガッチリした体格の男だった。本人いわく「中学生のときからやってる柔道のおかげで身長が伸びなかった」と。
その真意の程は疑わしいが、たぶん身長に対するコンプレックスを(自ら進んで)あけっぴろげに言ってしまうことで自分をガードし、なおかつ年季の入った有段者だということが言いたかったのだろう。彼の職種はコピーライターだったが体躯は一見して体育会系で、クルクルと精力的に動き回る男で、口が達者で、およそ文筆系というイメージからは程遠い男だった。
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そのKKが恋に落ちた。
相手は広告主の会社で宣伝広報部に席をおいている女性だった。私も仕事の関係で何度かこの会社に足を運び、彼女と打ち合わせをしたことがあった。どちらかといえば地味な感じの女性であり一目惚れして夢中になってしまうような女性とは到底言い難く「なんでまた?」というのが正直なところだった。
しかし確かに彼女は目立つ女性だった。私よりも身長が高かった。ざっと180cmはあっただろう。身長が高い女性は、声が低くなるのだろうか。その因果関係は知らないが彼女の低い声には一種独特の響きがあり、一度聞いたらちょっと忘れられないような声だった。
KKの恋愛はたちまち社内で評判になった。彼は笑顔で私の前にやって来て言った。
「どうだ。これで俺の噂はお前を越えたぞ」
越えるも越えないも、私は社内で噂など流されたことは一度もない。KKは誰かれ構わずその前に行ってそういうジョークを言うような男なのだ。このときも「はいはいそのとおりだ。まったくそのとおり」といった感じで相手にせず、私は制作中の広告ラフに戻ろうとした。
ところが彼の用件はそのジョークだけではなかった。今夜、彼女とデートするからそのネクタイを貸してくれというのだ。驚いたというかあきれたというか。私は改めて彼をまじまじと見た。
「このタイを貸せと?」
当時、私はネクタイを5本ほど持っていた。月火水木金の5種類というわけである。その日は金曜日で、私は5本のうち唯一のシルクタイを締めていた。初めてもらったボーナスの記念に買った1万円相当のタイで、JPS(ジョン・プレイヤー・スペシャル)のトラッドなデザインが気に入っていた。人に貸すなどもってのほかで、さらに本音を言ってしまえば、目の前でにやけている男の首に巻かれるなど、想像しただけでムシズが走るほど嫌だった。
「申し訳ないが」と私は言った。「このタイは大事なタイで、人に貸すわけにはいかない」
「そこをなんとか」と彼は言った。
私の机がある制作室にはデザイナーやコピーライターの机が並んでいる。すでに数人の社員たちが呼吸をひそめるようにして、我々の会話に耳を傾けているのが気配でわかった。
✻ ✻ ✻ つづく ✻ ✻ ✻