【 ローズ 】
マリアンヌがけげんな表情で私を見ている。娼婦が私に(旧知のように)声をかけてきたからだ。娼婦が私を「アーミー」と呼んだのには苦笑した。それにしてもこんなところで再会するとは。しかもこれじゃ誤解を受けてもしかたがない。
焦った気分でどう説明したらいいかと考えていると、貞子が救ってくれた。マリアンヌはともかく貞子は一向に平気というか、娼婦と話し始めた。会話の内容がさっぱりわからないのがなんとももどかしいが、親しげな雰囲気だ。どうやら貞子はこの娼婦を知っているらしい。
「お誘いしたけど断られた、と言ってるわ」
貞子が私を見て笑った。
お誘い?……あれは「お誘い」なんてもんじゃなかった。いきなり腕を取られて路地にひっぱりこまれたのだ。さらに「断った」というのもちょっと違う。「チャイニーズ?」と聞かれて「ノン!」と強い口調で否定しただけだ。……しかしまあ、細かいことはともかく、マリアンヌが笑い始めたのでなにはともあれほっとした。
「この人はローズ。私たちのモデルをしてるの」
モデル!……なるほど。それで知ってるのか。
私はうなずいた。ローズが手を伸ばしてきたので握手した。
「娼婦がモデル」というのは、この界隈では(画家にもよるのだろうが)よくあることなのかもしれない。ロートレックも何点か娼婦モデルの作品を残している。
貞子が机上で広げていた自分のスケッチブックを手元に引き寄せ、パラパラとめくった。
「これがそう」
なるほど、確かにローズだ。しかもヌードだ。
本人を前にしてまじまじとヌードデッサンを見るのもどうかと思い、私はドギマギしてしまったが、目の前の女性3人は一向に平気だった。ローズはその貞子デッサンがお気に入りなのかもしれない。スケッチブックを左手に持ち、「ヴラァボーッ!」と言った。右手はコンダクターのように手のひらを上に向けた称賛のポーズだった。高揚した気分から発せられた「ヴラァボーッ!」はなかなか良かった。「ヴ」ではなく「ラァ」に称賛のアクセントが入っていた。ローズの声を聞いて周囲の客たちは(一瞬だが)みなこっちを見たほどだった。

ロートレックが描いた娼婦
ローズの声を聞いてピエールが飛んできた。「やれやれ」という気分。
彼もまた(当然ながら)ローズとは知り合いなのだろう。彼女の腰に手を回しながら(えらい親しげな様子で)なにやら話し始めた。ちょっとおかしかったのは、その様子を見たマリアンヌがすごく嫌そうな表情でそっぽを向いてしまったことだ。「ははあ」と、なんとなく理解。
ピエールはローズを誘って別の席に連れて行ってしまった。「なんてヤツ!」と思う。「二度とここに戻ってくるな」とまたしても思う。しかしピエールと出会っていなかったら、私の目の前にいる貞子ともマリアンヌとも出会う機会はなかったわけだ。人の縁は本当に不思議なものだと思う。
【 新婚旅行の破綻 】
「フランスは長いのですか?」
貞子に聞いてみた。もっとも聞いてみたいことだった。
「そうね。長いのよ」
貞子が最初にパリに来たのは26歳の時で、なんとそれは新婚旅行だった。しかしその新婚旅行中から夫婦は口論を始めた。貞子はパリをとても気に入ったのだが、夫はあまり好感をもっていないようだった。当時、銀行員だった夫は「ちょっと異常なほどの」(貞子の言葉)清潔好きで、パリの不衛生な点ばかりに目が向いてしまうようだった。
「そんな男と結婚したら、厄介なことになると思わなかったのですか?」
「そうね。そのとおりなのよ」
貞子は夫の描く風景画が好きだった。夫は日曜画家だったが、その熱心な研究ぶりには感心していた。貞子自身は私立の美大を卒業していたのだが、卒業後はすっかり絵画制作から離れてしまった。彼女は父が経営する家具店の手伝いに奔走していた。
「結婚したら時間の余裕をつくって、私も風景画を描こうと思っていたの。夫婦で風景画の展覧会を開こう、とかね」
なるほどそれは素敵な夢だ。
「……それに夫が銀行員なら」
貞子にはもうひとつの理由があった。、父が経営する家具店(じつは経営が苦しかった)の相談にも乗ってくれるだろうという現実的な計算もあったのだ。
「パリに着いて最初の2日間は、夢のように楽しかったのよ!」
貞子は両手を広げて酒場の天井を仰ぎ見た。彼女のジェスチャーはすでにかなり日本人離れしていた。貞子にとってパリは中学生時代からの憧れの都だった。「新婚旅行は絶対にパリ!」というのも中学生時代からの夢だった。夫は国内の温泉を希望したのだが、貞子の希望の方が圧倒的に強かったのだ。彼女は中学校の美術部にいた時代から印象派に強く憧れていた。ルーブル、オルセー、そしてセーヌ川。なにはともあれこの3つだった。
「でも3日目にすごい口論になって……」
なんと夫は10日間のパリ滞在に我慢できないと言いはじめた。「南に行けば、もう少しマシな街もあるだろう」と彼は言い出し、貞子を置いてさっさと一人で南に旅立ってしまった。さらに驚いたことに、その数日後に彼はさっさと帰国してしまった。
「南でなにがあったのです?」
「さあ」
貞子は笑っていた。
「あの人は、そういうことは絶対に説明しない人なの」
【 つづく 】

