【 魔談539 】モンマルトルの画家たち(40)

【 アヘン 】

麻薬をめぐる人類の黒歴史は、大変に古い。またその毒牙にかかり人生を台なしにしてしまった人の数は計り知れない。麻薬こそ「人類の魔歴史」と言ってもいいだろう。
戦争映画が好きな人は「プラトーン」(1986年/アメリカ)の1シーンと言えば、「ああ、あのシーンね」と即座にわかるに違いない。ベトナム戦争の最中。夜のアメリカ軍兵舎。いかがわしい雰囲気が漂っている自主開店BARのような一角。すでにラリっている兵士たちは、ショットガンの筒を利用して口移しに煙を吸引している。まさに「魔の煙」が兵士たちに片時の陶酔感・現実逃避感を与えているといったシーンだ。これがアヘンである。前回の魔談で述べた「ケシの果実から採取した(ドロッとした)液体から生まれた麻薬」だ。

なにかの本(あるいは雑誌)でこんな問答を読んだ記憶がある。
ベトナム戦争従軍記者(すっかりラリっている兵士たちに呆れて)「いま、敵に襲撃されたらどうするんだ?」
一兵士「誰もそんなこと気にしてねえよ。いま殺されたら最高の気分で行けるってもんだ」

【 ペルビチン 】

貞子とコーヒーを飲んでいると、ビッとカーテンを開いて中に入ってきた男がいた。シーレだった。ノックができないのはまあ当然としても、いささか横着な感じがした。貞子の表情は途端に険しくなった。
シーレは3枚のキャンバスを抱えていた。どうやら自分の絵を私に見せにきたらしかった。それに気がつくと、貞子の表情もいくらか和らいだように見えた。

シーレはテーブル脇の床に3点の絵を並べた。いずれも10号(530mm/455mm)ほどのキャンバスだった。さほど大きな絵画ではない。ちょっと驚いたことにそれは3点とも戦争絵画だった。いや正確に言うと「戦争絵画のようなシーンを描いているが、事実とは異なる幻想絵画」というべきか。
明らかにナチスドイツを連想させる軍服を身につけた兵士たちが、戦車に乗って夜の森林を突破しようとしている。しかしよく見ると戦車は実際に第二次大戦に登場したものではなく、(軍馬に引かせた)ローマ軍戦車に施された装飾模様のようなもので覆われている。しかも兵士たちはみな(不気味なことに)ゾンビのような顔立ちだ。腕の赤い腕章は本来はナチスドイツのマーク(ハーケンクロイツ)がついているはずだが、赤で囲まれた白い丸の中には「P」の文字がくっきりと描いてあり、そのすぐ下には「Pervitin」の文字が配置されている。

「これはなんですか?」
私は「Pervitin」の発音がわからなかったので、その文字を指さして貞子に聞いた。
「これはペルビチン」
説明はしてくれたものの、貞子の表情は暗かった。そんな話などしたくもない、というのが本音だろう。
「ああ、いいですよ。わざわざ説明しなくとも」
私はちょっと焦って貞子に声をかけたのだが、彼女は笑顔で軽く手を振った。
「いいのよ。私が知ってる範囲で、説明してあげる」

それはこんな説明だった。ペルビチンというのは、早い話が「錠剤になった覚醒剤」だというのだ。注射で血管に注入するようなものではないので、その効果のほどはまだ軽いのかもしれない。しかし麻薬は麻薬だ。中毒になる可能性だってあるだろう。
貞子はシーレにもコーヒーを入れながら彼となにか会話していた。
「つくったのはナチスドイツ。最前線の兵士たちに飲ませていたらしいの」
これには驚いた。

貞子の説明によるとこうだった。
第二次大戦勃発時、ナチスドイツは(周辺の国々になんの通達もなく)侵攻を開始した。機械化部隊による電撃侵攻戦で、フランスは(ヒトラーが小踊りするほどに)あっけなく占領された。これはおそらくフランス人にとっては、永久に忘れることのできない屈辱だろう。この時期、ナチスドイツは机上の便箋にインクをこぼしたように四方八方に進撃を仕掛けていた。当然ながら最前線の兵士たちは不眠不休に近い進撃を命令された。そうでなければ電撃戦にならない。超人的な進撃を推し進めるためにペルビチンを利用したというのだ。まさに「快進撃」ならぬ「麻薬進撃」。

「……で、それを絵画制作のモチーフとしているのは、なにか理由が?」
「この人の一族はね……」
貞子はシーレの方をチラッと見た。
「このペルビチンで儲けたの。この人、じつはドイツ人だったのよ。今はフランス国籍だけど」

「……そういえば」という気分で私は思わずシーレをマジマジと見た。彼の顔つきというか顔面の骨格はフランス人とはいささか異なるように思われた。この男はどこか猛禽類を連想させるような顔つきだった。深い眼窩の奥でギョロッとした目が絶えず動いていた。高い鼻は硬いクチバシを連想させた。
「フランス人はドイツ人を嫌っている、という話を聞いたことがありますが」
「この人は逆よ」と貞子は言った。「この人の一族はドイツを嫌ってフランスに逃げてきたの」

【 つづく 】


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